『大日本史料』 12編 7 慶長十五年閏二月~同十六年三月 p.321

Loading…

要素

頭注ノンブル

OCR テキスト

んて、しはらくこの所に滯坐ありて晴をまちたまはんとこふ、太閤叱し, にも、すてに加島に御陣坐あり、このとき忠次仰によりて、駿遠三、三國の, 烈しきかゆへに、士卒甚勞し、皆とゝまらん事を希ふ、このとき忠次すゝ, 失ふにあたれり、今殿下の武威を以て、關東を征したまはんに、豈その日, の遲速により、勝敗のあつかる事あらんや、しはらく逗留ありて士卒を, ていふ、凡軍行前に川ありて雨にあふときは、すみやかに渡らされは、の, へとも、みつから諸將に先たちて發駕あらんと促さる、しろれとも風雨, 道路及び富士川舟梁の普請を奉行し、且兵粮等の事をうけたまはる、三, なり、今軍勢數萬、これを渡すときはかならす溺死するものあらん、若十, 人溺れなは、人傳へて百人と申へし、しかるときは、味方をのつから勢を, 月十一日、昨日太閤吉田に著あるの處、風雨數日にしていまた晴すとい, ちかならす渡りかたしといへり、しかるをなんちこれをとゝむるは何, 休らひたまへと申、太閤その言の理ある事を感し、我ひさしく三遠に名, 近習に列す、十八年二月、豐臣太閤小田原に進發の催あるにより、東照宮, そや、忠次こたへて仰のこときは小軍は可なり、大軍にいたりては不可, 秀吉忠次, レ滯軍ス, ノ言ヲ容, 道路橋梁, ノ普請奉, 行, 〓長十五年六月十三日, 三二一

頭注

  • 秀吉忠次
  • レ滯軍ス
  • ノ言ヲ容
  • 道路橋梁
  • ノ普請奉

  • 〓長十五年六月十三日

ノンブル

  • 三二一

注記 (23)

  • 1200,720,61,2146んて、しはらくこの所に滯坐ありて晴をまちたまはんとこふ、太閤叱し
  • 1779,725,68,2140にも、すてに加島に御陣坐あり、このとき忠次仰によりて、駿遠三、三國の
  • 1316,715,66,2138烈しきかゆへに、士卒甚勞し、皆とゝまらん事を希ふ、このとき忠次すゝ
  • 496,711,59,2144失ふにあたれり、今殿下の武威を以て、關東を征したまはんに、豈その日
  • 377,720,62,2135の遲速により、勝敗のあつかる事あらんや、しはらく逗留ありて士卒を
  • 1082,716,62,2144ていふ、凡軍行前に川ありて雨にあふときは、すみやかに渡らされは、の
  • 1431,730,66,2143へとも、みつから諸將に先たちて發駕あらんと促さる、しろれとも風雨
  • 1662,720,69,2156道路及び富士川舟梁の普請を奉行し、且兵粮等の事をうけたまはる、三
  • 730,717,61,2141なり、今軍勢數萬、これを渡すときはかならす溺死するものあらん、若十
  • 614,715,59,2146人溺れなは、人傳へて百人と申へし、しかるときは、味方をのつから勢を
  • 1548,721,65,2145月十一日、昨日太閤吉田に著あるの處、風雨數日にしていまた晴すとい
  • 963,714,61,2153ちかならす渡りかたしといへり、しかるをなんちこれをとゝむるは何
  • 258,705,60,2150休らひたまへと申、太閤その言の理ある事を感し、我ひさしく三遠に名
  • 1897,722,67,2148近習に列す、十八年二月、豐臣太閤小田原に進發の催あるにより、東照宮
  • 850,718,58,2142そや、忠次こたへて仰のこときは小軍は可なり、大軍にいたりては不可
  • 902,270,40,171秀吉忠次
  • 814,284,40,153レ滯軍ス
  • 859,277,40,165ノ言ヲ容
  • 1727,276,42,171道路橋梁
  • 1683,281,41,167ノ普請奉
  • 1639,274,34,42
  • 160,705,43,426〓長十五年六月十三日
  • 158,2439,42,105三二一

類似アイテム