『大日本史料』 12編 10 慶長十七年八月~同十八年二月 p.743

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同二年, 當、七騎を切落し、三ケ所手負ふ、猶、うち入〓下知をなすに、宗茂のあき所を, として守らしむ、九月七日、敵勢よせ來、下知を傳追拂、敵數多討捕、伊藤貞恆, 討死に、以後熊川城を守の砌、大勢押來る、味方小勢にして亂立を計て、是を, 同四月三日、宗一、殿下より賜感状、都而朝鮮在陣中、殿下より御書を給ふも, しらす、數刻はかりにして、再一手になりて敵を切崩し、千餘人を討捕、兩家, し〓め、兵氣を察して、急に下知を傳へてうち出、敵兵を追拂、城中に引入る、, と同しくうち出、宗一摩をふりて眞先に進む、合戰はけしくして、自身敵に, 出陣、筑紫廣門と同しく、加徳城を守、もじうの城き、老臣伊藤源右衞門を將, 文祿元年, ち出、一軍を切崩し、數百人を討捕、即日小早川隆景の軍亂あ引のく砌、宗茂, 天正十六年, の戰死貳百三十餘人, 主膳正宗一と改名、同四月十四日、今上帝聚樂亭え行幸、供奉, 三月、兄立花統虎と同しく上京、被敍從五位下, 、正月廿六日、大明の軍勢兩大將押來の砌、兄立花宗茂と同しくう, 朝鮮征伐の砌、軍役五百人の所、五十三騎惣勢八百人をも〓て, を勤、, ヲ天正十七年, 二係ケタリ、, ○寛政重修諸, 家譜二ハ、敍位, 巳, 癸, 辰, 壬, 戊, 子, 征韓役ニ, 從フ, 慶長十八年正月二十九日, 七四三

割注

  • ヲ天正十七年
  • 二係ケタリ、
  • ○寛政重修諸
  • 家譜二ハ、敍位

頭注

  • 征韓役ニ
  • 從フ

  • 慶長十八年正月二十九日

ノンブル

  • 七四三

注記 (32)

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