『大日本史料』 12編 17 慶長十九年十二月~元和元年三月 p.925

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り、信昌小勢をもつて大敵を引請、かたく城を守りし〓を感し、且家臣乃, かゝ多、これにより甲軍大に利を失ひ、春日をはしめ死傷をしらす、凡こ, す、此夜東照宮にもまた入御ありて、信昌及ひ一族奧平久兵衞貞友、奧平, 退かむとす、信昌これを追〓挑み戰ふ、貞能もまた鳶巣山を下りて撃て, 修理定直、奧平但馬久正、奧平周防勝次、奧平次左衞門勝吉、奧平與兵衞定, の役に信昌か一族家臣等戰功尤多し、日暮に及ひす、織田信忠城中にい, 防くといへとも、忠次下知し〓敵乃後に兵を廻し、陣小屋に火を放〓す鯨, 次、奧平土佐定友七人、家老山崎善兵衞勝之、生田四郎兵衞勝重、兵藤新左, 實及ひ三枝松、名和、飯尾、五味等をはしめとし二千餘人討死す、こはゝにを, 長篠の城門を開きて〓て出、前後よりけしはさみて攻撃しかは、武田信, いて勝頼か諸軍も〓〳〵く破れ、長篠城の押へたりし小山田昌行及ひ, 春日室賀等も、二千餘乃兵をワかちて四隊とし、火をその陣營に放ちて, 波を發せしむ、武田勢これかために辟易し、軍伍を亂す、こは〓を見て、信昌, 輩か戰功を賞す、右府よりも、西尾小左衞門吉次をし〓信昌か勇敢を賞, より鳶巣山にいたり、不意に發して彼山に攻乃ほ多、武田勢よくこれを, 元和元年三月十四日, 甲斐ノ軍, 族戰功最, 二〓ス, 信昌〓テ, 出デ大ニ, 信昌ノ一, ヲ破ル, 多シ, 一族家康, 元和元年三月十四日, 九二五

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  • 甲斐ノ軍
  • 族戰功最
  • 二〓ス
  • 信昌〓テ
  • 出デ大ニ
  • 信昌ノ一
  • ヲ破ル
  • 多シ
  • 一族家康

  • 元和元年三月十四日

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  • 九二五

注記 (27)

  • 755,698,58,2137り、信昌小勢をもつて大敵を引請、かたく城を守りし〓を感し、且家臣乃
  • 990,705,55,2136かゝ多、これにより甲軍大に利を失ひ、春日をはしめ死傷をしらす、凡こ
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