『大日本史料』 12編 18 元和元年四月~同年五月 p.1150

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レしか、遂ニ廻すましと評定も定りぬ、扨河嶋き終夜もだへにれとも返事, ヲ乘んも計難シ、又一兩日も持ならは如何とは、忠政君御思按なされ兼ラ, も惣乘有へよ躰なれは、是程ニ攻詰たる場ヲ引拂、久法寺へ廻る内、惣軍城, 公へ御樣子伺トして差上けれき、御直答にく、上意に、森美作守陣屋へ立寄, り久法寺へ道法方角知レ不申、其上深更ニも及けれは、久法寺迄廻ス内に, すり〳〵必頼と被仰渡候故、河島は當家の備へ參、可兒忠左衞門, り道にて高名シたると也、其比の一説ニは、久法寺へ廻り候はゝ、高名有へ, 同六日申下刻、京極丹後守高廣, 出されは、可兒か小屋にてしたらめいたし、七日の未明に歸さま、能圖に歸, か使番河嶋八右衞門家康, 今日矢尾道明寺の合戰ニ、東國先手大勢打死致候へは、人數勞レ、矢尾御手, 薄ク候故、勢ヲ廻シ度思召間、美作守一備ハ矢尾口へ廻り候樣ニ、森か備へ, きものを〓云、又陣場ゟ久法寺へは能道なれは、唯途中ニ漂ひ何事もなく, 小屋へ參候故、忠政君へ申上、河嶋ヲ待セて御相談有之、當家の陣場仙波よ, 何レも精ヲ出されよと氣ヲ付しと也、, 立寄申聞候へと、操返し兩度迄御直の上意にて、河島か肩ヲ御手づからゆ, 丹州田邊の城主, 後安知齋ト云, 河嶋ろ, 縁者也, 尾ニ向ハ, ノ勢ヲ八, 忠政ノ行, 家康忠政, ル批評, シメント, 動ニ對ス, 從ハズ, 忠政之二, 元和元年五月六日, 一五〇

割注

  • 丹州田邊の城主
  • 後安知齋ト云
  • 河嶋ろ
  • 縁者也

頭注

  • 尾ニ向ハ
  • ノ勢ヲ八
  • 忠政ノ行
  • 家康忠政
  • ル批評
  • シメント
  • 動ニ對ス
  • 從ハズ
  • 忠政之二

  • 元和元年五月六日

ノンブル

  • 一五〇

注記 (31)

  • 520,677,61,2207レしか、遂ニ廻すましと評定も定りぬ、扨河嶋き終夜もだへにれとも返事
  • 637,664,60,2207ヲ乘んも計難シ、又一兩日も持ならは如何とは、忠政君御思按なされ兼ラ
  • 754,656,62,2227も惣乘有へよ躰なれは、是程ニ攻詰たる場ヲ引拂、久法寺へ廻る内、惣軍城
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