『大日本史料』 12編 19 元和元年五月 p.640

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房立を介錯仕るへし、大野修理は秀頼公御介錯と定らる、睦の御方、〓〓場の, し、我名字を讓り、蜂屋市兵衞といふ、後紀州に參仕候と、, た燒納しかは、秀頼公御入候芦田曲輪をは、近藤石見片桐市正等圍之、, 局、宮内卿、右京太夫、何れも女房達は淀殿の御前へ參り、時至ては物さはか, 合戰可仕と勇申候を、秀頼公御覽し、面々戰ひ勞れ、〓に不覺の死をせんよ, り、自害して死體を可隱にあり、氏家内膳は淀殿を介錯仕るへし、豐前き女, しく候ハん儘、唯今御暇申上候はん、三位局は昨日の暮方自害し、今は羨敷, 案堵をを不見、むなしとなさん事、今生の悲不過之となきたまふ、城中大か, と皆々申候、淀殿も天下の有主と生れたまふ廿餘成る秀頼の、一日片時の, て只廿八人也、無是非仕合と被仰、速水甲斐守、毛利豐前守は、敵寄は最期の, 大御所は先手軍始と注進在之ニ付、御急被成候處に、早御勝にて敵敗軍の, を可保運命盡て今如此、今朝まて十万餘の大將たりといへとも、最期に臨, 秀頼公は速水甲斐守、毛利豐前守に向ひ給ひて、我太閤の嫡子と生れ、天下, よし被聞召、茶臼山へ向て靜に押給ふ、庚申堂邊にて、空騷して御先崩れ候, へとも、大御所少も御馬を不被動候ニ付、皆々立直し、茶臼山へ御陣取、城中, 元和元年五月七日, ノ覺悟, 城中最期, 家康陣ヲ, 茶臼山二, 進ム, 元和元年五月七日, 六四〇

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  • ノ覺悟
  • 城中最期
  • 家康陣ヲ
  • 茶臼山二
  • 進ム

  • 元和元年五月七日

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  • 六四〇

注記 (23)

  • 1075,636,64,2230房立を介錯仕るへし、大野修理は秀頼公御介錯と定らる、睦の御方、〓〓場の
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