『大日本史料』 12編 19 元和元年五月 p.811

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段被申上候へは、將軍樣暫くの間とかくの仰も無御座候か、程有て、其身, 被仰付被差置候處に、六日の晩、舍兄忠直先登の志有之由を被聞及、御本, と申す懸ケ詞にて眞先に進むを見て、越前家の諸手の軍兵、我劣らしと〓, しく城兵と相戰ふ、此節吉田修理は、自身の家來組中を率し、やれ死ね〳〵, 城中へ一番に入させ被申候と也、, 日御一戰の刻、彼手ニ於て相應の御奉公をも仕度との義ニ付、佐渡守其, 昌右の念流をも鑓付、其首を取て御旗本へ持せ罷越、猶又忠直の人數と同, 行敵を追打に致し候とて、天滿川の深みへ馬を乘入、其身馬共ニ水底へ沈, 城方念流左太夫と申〓術者人の聞へ有者忠昌を目懸て〓懸り候處ニ、忠, 之相果候と也、忠昌は本多伊豆か組中の眞先に進み、大手の門へ押入、旗を, 右忠昌の義其頃十九歳也、將軍樣御側に御奉公ゆへ、本多佐渡守相備に, は越前家の侍西尾仁左衞門に討れ候と也、吉田修理義は、天滿の方へ崩れ, 陣に於て、佐渡守を以願被申候は、私義今晩ゟ參河守か陣所へ罷越、明七, 懸り候を以、流石の眞田も手に餘し、終ニは戰ひ負て悉く敗走に及ひ、幸村, 文字の鑓を取て、城兵壹人を〓伏、家人に命して、其首を取らせ被申候處ニ, 元和元年五月七日, 忠昌先陣, 忠昌一番, 將士ヲ激, コトヲ請, ニ列セン, 吉田好寛, 夫, 念流左太, 勵ス, 乘, 元和元年五月七日, 八一一

頭注

  • 忠昌先陣
  • 忠昌一番
  • 將士ヲ激
  • コトヲ請
  • ニ列セン
  • 吉田好寛
  • 念流左太
  • 勵ス

  • 元和元年五月七日

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  • 八一一

注記 (28)

  • 305,695,66,2147段被申上候へは、將軍樣暫くの間とかくの仰も無御座候か、程有て、其身
  • 655,693,66,2147被仰付被差置候處に、六日の晩、舍兄忠直先登の志有之由を被聞及、御本
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  • 1596,621,60,2199しく城兵と相戰ふ、此節吉田修理は、自身の家來組中を率し、やれ死ね〳〵
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