『大日本史料』 12編 20 元和元年五月 p.214

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あり、此事異域へも聞へたると見えて、涌憧小品に, 鑿もなかりしと聞傳ふ、大坂落城後は、九州四國わたりは海上を隔たれは、, 彼國々へ落來りし者多かりしとそ、眞田幸村、大野治親も讚岐へ落來りし, 何にてか見たりし、落城のとき、神祖天守に火かゝりたるを御覽ありて、早, 傳へり、幸村は二代目より苗字を顯はし、眞田權左衞門う改め、當時も其子, く御動座あるべしと仰出さるゝ故、左右より未だ秀頼の安否知れ不申と, 孫續きて權左衞門と云と聞へし、治親は後村郷の子供ニ手跡の師範とな, へし、幸村も治親も讚岐の山家ニ忍ひ居て、名を替生涯を過せし樣ニも言, 言上せしに、天守に火かゝれば落城なりとの御諚にて、即御動座ありしと、, とかや、四國のうちニも、讚岐阿波は大坂へ近く、渡海も弁利なる故もある, 又或人曰、秀頼薩摩に行きし後、大酒にて處々にてこまりたり、酒の負債多, り、生涯を過しといへり、其跡も絶すして、今はありやそはしらに、はた讚岐, の沖小豆嶋の庄やニ、大野道犬の道具を數々今ニ持傳へりと云、, 兵敗走して入和泉、焚城而死、又有言逃入薩摩者と、入和泉とは誤聽なり、又, 秀頼か, 〔甲子夜話〕四大坂落城の時、豐臣秀頼は、潜ニ薩靡ニ行れたりと云一説, の朱國禎著す、, 第三十に見ゆ、明, 略、, 下, 那ニ傳ハ, 秀頼薩摩, 落ノ事支, 讚岐ニ遁, 元和元年五月八日, 二一四

割注

  • の朱國禎著す、
  • 第三十に見ゆ、明
  • 略、

頭注

  • 那ニ傳ハ
  • 秀頼薩摩
  • 落ノ事支
  • 讚岐ニ遁

  • 元和元年五月八日

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  • 二一四

注記 (26)

  • 734,639,60,1506あり、此事異域へも聞へたると見えて、涌憧小品に
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