『大日本史料』 12編 38 元和七年六月~同年十一月 p.106

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おもむく、このとし、大坂の亂ふたゝひおこるにより、重信、一隊の士を率ゐて御旗本の後, さるへしとつく、時之、則大野治長と相議し、秀頼母子を城より出さむとて、輿二丁をこひ, は後陣の兵をひきゐて供奉す、敵すてに敗北して落城にをよひ、豐臣秀頼、其母とおなし, 陣となる、しかれとも軍卒をは男重長にあつけて、重信は台徳院殿の御傍に在て、士卒を, て、大坂に殘りとゝまる事三四日、既に埋めしところの隍〓を監し、諸勢を率ゐて京師に, 生捕んとて、速水甲斐守時之をまねきて、秀頼もし速に降參あらは、母とゝもに死をゆる, 信は釣命をかうふり、御麾下の諸勢を率ゐて進發し、御跡より京師に至る、それより供奉, 求む、よりて輿一丁・馬一疋をあたふ、ふたゝひ輿をこふ、直孝・重信、またこれをはからは, 上せしかは、則御馬をすゝめらる、重信は、なを御備にしたかひて諸軍に下知し、男重長, く廩中にかくる、井伊直孝・本多正純・阿部正次等、討手をうけたまはり、重信は〓使の役, に列して大坂に赴き、台徳院殿の左右に候し、上使となりて軍中に馳向ひ、其事を言上す, 指揮す、五月七日、仰によりて先陣におもむき、戰塲の形勢をみて、接戰すへきの時刻を言, 元和元年、さきに和議なるにより台駕を京師にかへさせたまふのとき、重信、仰により, となりて城中に赴き、直孝等と相はかりて、秀頼をあさむき、大路に引出し、諸軍に見せて, 元和七年六月二十九日, ニ在リテ十, 秀頼ヲ生捕, 秀忠ノ側近, 卒ヲ指揮ス, 大坂夏陣ニ, ラントス, 秀忠ニ扈從, 京都ニ抵リ, 一〇六

頭注

  • ニ在リテ十
  • 秀頼ヲ生捕
  • 秀忠ノ側近
  • 卒ヲ指揮ス
  • 大坂夏陣ニ
  • ラントス
  • 秀忠ニ扈從
  • 京都ニ抵リ

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  • 一〇六

注記 (24)

  • 1297,645,61,2160おもむく、このとし、大坂の亂ふたゝひおこるにより、重信、一隊の士を率ゐて御旗本の後
  • 306,644,60,2158さるへしとつく、時之、則大野治長と相議し、秀頼母子を城より出さむとて、輿二丁をこひ
  • 813,643,61,2161は後陣の兵をひきゐて供奉す、敵すてに敗北して落城にをよひ、豐臣秀頼、其母とおなし
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  • 1420,643,60,2154て、大坂に殘りとゝまる事三四日、既に埋めしところの隍〓を監し、諸勢を率ゐて京師に
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