『維新史』 維新史 1 p.514

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和蘭政府は破格を以て蘭領東印度陸軍病院の醫官とし、, と獨逸國ウュルツブルグの人、醫學・地文學・民族學を專攻し、東洋研究の志が厚か, いことが漸次長崎市民の知る處となり、治療を請ふ者が多く、長崎奉行等も彼が, 次いで長崎出島蘭館に在勤することになつた。醫學其の他諸學科に造詣の深, に遍きに至つた。蘭醫の分布とシーボルト門下及び其の交友の分布とは、幕末, 藤謙同・日野鼎哉、肥後の高橋春圃、周防の青木周〓・岡研介・岡泰安、美作の石井宗謙・, 婦人科・内科に亙つて治療に從事し、名聲が揚つて門に入る士は殆んど我が全國, に於ける西洋文化普及の標識であつた。煩を厭はず、其の人々を擧げれば、門下, 石坂桑龜、備前の兒玉順藏、安藝の日高凉臺、阿波の美馬順三・高良齋、伊豫の二宮敬, としては長崎の吉雄幸載・楢林榮建・同宗建・西慶太郎・高島茂敦, 東玄朴・大庭雪齋、筑前の武谷元立・百武萬里・河野禎造、豐前の賀來佐一郎、豐後の〓, 出島を出でて、市中に往來するを默認するに至つた。斯くて通詞楢林家や吉雄, 家に留まつてゐたが、後長崎郊外鳴瀧に一舍を建築して塾を開き、外科・眼科・産科。, つたが、文政五年, 作・三瀬周三、遠江の戸塚靜海、尾張の伊藤圭介、三河の平井海藏、加賀の竹内玄同、越, 幡崎鼎、肥前の伊, 西暦一八, 二二年, 帆, 秋, 其の門人, 及び交友, 第三編鎖國政策の破綻, 五一六

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  • 西暦一八
  • 二二年

頭注

  • 其の門人
  • 及び交友

  • 第三編鎖國政策の破綻

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  • 五一六

注記 (24)

  • 1596,1267,67,1593和蘭政府は破格を以て蘭領東印度陸軍病院の醫官とし、
  • 1702,593,74,2273と獨逸國ウュルツブルグの人、醫學・地文學・民族學を專攻し、東洋研究の志が厚か
  • 1364,601,70,2260いことが漸次長崎市民の知る處となり、治療を請ふ者が多く、長崎奉行等も彼が
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