『維新史』 維新史 4 p.342

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に亙つて、是が教授に努める事となつた。併し當時、一方に夷狄蔑視の觀念は猶, た。のみならず、勢の赴く所、一時博習堂の洋書講讀さへも禁ぜられたが、他方西, 強く藩内人士の心を捉へて、博習堂在寮生の如きも、僅々二十餘名に過ぎなかつ, 年二月藩士中島治平を舍密局總裁に任じ、好生堂教授等と協議し、斯學の振興を, と定め、生徒をして本科を修むる旁ら、餘力あれば星學等を學ばしめた。其の後、, は醫學館好生堂を新堀の新館に移したが、此の日、教授役能美洞庵・青木周〓等は、, 洋新文明移入の必要は盆〻切實となつたので、遂に文久三年藩廳も亦其の禁を解, くに至つた。是より後洋學の進歩は特に著しかつた。元治元年七月に至り、博, せられだ。, 計らしめ、次いで舍密術修業學生の好生堂に寄宿するを勸奬した。, 醫學に於いても、洋方兼修が漸次盛んとなるに至つた。文久二年二月長州藩, 習堂は山口博習堂と合併せられ、次いで慶應元年四月三田尻海軍兵學校に合併, 新に學規を制定し、醫學を本科とし、星學・地理學・舍密學(化學)・窮理學等を豫備學科, 藩廳は屡〻醫學を奬勵したのみならず、特に舍密學の振興を計つた。即ち慶應二, 好生堂, 第十四編外交の轉機, 三四二

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  • 好生堂

  • 第十四編外交の轉機

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  • 三四二

注記 (17)

  • 1723,593,59,2277に亙つて、是が教授に努める事となつた。併し當時、一方に夷狄蔑視の觀念は猶
  • 1491,597,59,2275た。のみならず、勢の赴く所、一時博習堂の洋書講讀さへも禁ぜられたが、他方西
  • 1606,588,59,2275強く藩内人士の心を捉へて、博習堂在寮生の如きも、僅々二十餘名に過ぎなかつ
  • 317,590,64,2275年二月藩士中島治平を舍密局總裁に任じ、好生堂教授等と協議し、斯學の振興を
  • 551,583,62,2295と定め、生徒をして本科を修むる旁ら、餘力あれば星學等を學ばしめた。其の後、
  • 783,587,61,2296は醫學館好生堂を新堀の新館に移したが、此の日、教授役能美洞庵・青木周〓等は、
  • 1370,584,62,2287洋新文明移入の必要は盆〻切實となつたので、遂に文久三年藩廳も亦其の禁を解
  • 1254,590,62,2280くに至つた。是より後洋學の進歩は特に著しかつた。元治元年七月に至り、博
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  • 203,591,58,1886計らしめ、次いで舍密術修業學生の好生堂に寄宿するを勸奬した。
  • 898,654,65,2218醫學に於いても、洋方兼修が漸次盛んとなるに至つた。文久二年二月長州藩
  • 1138,588,65,2283習堂は山口博習堂と合併せられ、次いで慶應元年四月三田尻海軍兵學校に合併
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