『保古飛呂比』 保古飛呂比 2 元治1年~慶応3年 p.309

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もう高飛のならぬ輕格, れを五十人組と云ふ、藩廳大に議論ありしも、平井善之丞盡力して、程能願濟の運にて出立せり、, 小八木派も吉田派も、入交り要路にあり、元治元子年秋、長州京師に於て暴發し、吾が藩士分の, 七卿、長州へ〓走、同九月、京都より御沙汰により、武市半平太等數人獄に下り、小南も謹愼の, なりしとぞ、小八木は吉田派も嫌ひ、亦小南派則ち勤王派も忌み、縮る處佐幕派の巨魁なり、同, 年十月十五日、武市派の過激輩、藩廳に願捨てを以て、江戸表に至り、兩公を御警衞せんと、是, 九歩迄は長州討滅論なり、長州方は、士分は前件の如くなれ共、土佐國一般は助長論なり、追に, 此の徒は吉田を暗殺せる同類なるの疑あれば、容堂公には御不滿にて被爲在しとぞ、同三亥年正, 身となれり、馬場源馬狂歌あり、, にて、同四月十二日、御歸國、京師は盆混雜、遂に同八月、長州藩を京師より退け、三條卿初め, 勤王の頭を飛車とひしかれて, 月、容堂公江戸より御上京の處、幕府内輪大に錯雜、何分御意見立たず、所謂依るべきなき景況, べて望なし、元來小八木は勤王家に非ず、武市派の各藩等より推戴され勢を得たるを見、大不平, 長州も伏罰し、翌慶應元丑年五月、將軍江戸を發し、長州再討を令し、上坂す、閏五月、武市氏, (郷士以下を輕格と云ふ、勤王家多き故ならん), 卷十五慶應二年, 三一二

  • 卷十五慶應二年

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  • 三一二

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  • 719,796,53,531もう高飛のならぬ輕格
  • 1487,587,61,2310れを五十人組と云ふ、藩廳大に議論ありしも、平井善之丞盡力して、程能願濟の運にて出立せり、
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