『大日本史料』 6編 5 暦応元年8月~暦応2年12月 p.504

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年甲佐合戰, 郷の城にう〓りたりしか、其事博多に聞へて、立田託摩なとをさし向て、惟, 左衞門尉とあれは、本よりの肥後國人にはあらて、初はたゝ後藤とはかり, 五六月の間にてありしなるへし、立田七郎は詫摩文書には立田後藤七郎, 田か甥の十郎を生取にせしと見へたり、しかれは惟澄か南郷に向ひしは, 時を追出し、立田七郎入替て楯籠りて有しを、惟澄馳向て立田を追落し、立, 〔參考〕, 名のりて、仁木義長に從て筑前まて下りたりしを、仁木か上洛するをり代, 前ニ敍セルヲ以テ、定メテ本年ノ事トナシ、詫磨文書ニ據リテ是日ニ, ○本條ノ戰ハ、其年ヲ詳カニセスト雖ドモ、惟澄申状ニ此條ヲ延元三, 叛して楯籠りたるを惟澄馳向て追落し、坂梨入道父子を討殺したる南郷, 官として殘し置、肥後國飽田郡の立田を所領に付て置たりし故、立田後藤, の城なるへし、しかるを今とし惟時か其城に移り住はんとて、矢部より南, 掲グ、, ノ後、興國元年小鳥合戰, 〔征西將軍宮譜〕三南郷の城とは、一昨年の夏一族の坂梨宗喜入道か謀, 南朝延元四年北朝暦應二年四月二十一日, 同年十月是月, 日ニ其條アリ、, ニ其條アリ、, 同年十二月二十, 南郷城, 立田七郎, 南朝延元四年北朝暦應二年四月二十一日, 五〇四

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  • 同年十月是月
  • 日ニ其條アリ、
  • ニ其條アリ、
  • 同年十二月二十

頭注

  • 南郷城
  • 立田七郎

  • 南朝延元四年北朝暦應二年四月二十一日

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  • 五〇四

注記 (25)

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