『大日本史料』 6編 33 応安3年是歳~応安4年3月 p.306

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て、是を補佐し、所々の急難を凌き、多くの一族郎等を失ひしも、子孫の後榮をおも, 出て、伯耆國に下り、父時氏に子細を申る、時氏大に怒り、抑我れ元弘・建武の比, ふのゆへなり、しかるに尊氏父子の心底いさゝか遺恨なきにあらす、某倩思ふに、我, る者と言はんや、所詮此度芳野殿の御味方して、家を起さんとて、小林民部丞重長・, 一文和元年壬辰八月廿八日, 江村山城守秀政兩人を芳野へ使はして、時氏御味方申て、聖運を開しめ奉らんと、四, に、上野國より出て以來、一日も尊氏の爲に私曲をおもはす、一族の好みを重んし, 田の氏族は、あれともなきかことし、此時我れ思ひ立事有とも、たれか我れを武に誇, は京都に有るの處に、若狹國の所領の事によりて、尊氏公父子に憤りを含み、京都を, か家の祖伊豆守義範は正しく八幡殿の嫡傳として、新田上西入道の嫡子たり、今新, 田・高山等も疵を蒙り、山名・細川兩家の軍勢多く討死せしによりて、終に戰ひ破れ, て、京都に引退かる、, に、時氏は領國にあり、嫡子右衞門佐師義, 條中將について奏聞あり、芳野の皇居にて公卿詮議有り、山名家は其先き新田大炊助, 義重か嫡男たれは、今官軍大將を賜といふとも、何の子細かあるへきと、評議一, 癸巳六月七日と言、, 一説曰、文和二年, 二三口二三ニ戸, 尊氏ニ叛キ, テ歸順ス, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 三〇六

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  • 癸巳六月七日と言、
  • 一説曰、文和二年
  • 二三口二三ニ戸

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  • 尊氏ニ叛キ
  • テ歸順ス

  • 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日

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  • 三〇六

注記 (22)

  • 1040,788,66,2185て、是を補佐し、所々の急難を凌き、多くの一族郎等を失ひしも、子孫の後榮をおも
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