Loading…
要素
割注頭注ノンブル
OCR テキスト
て、是を補佐し、所々の急難を凌き、多くの一族郎等を失ひしも、子孫の後榮をおも, 出て、伯耆國に下り、父時氏に子細を申る、時氏大に怒り、抑我れ元弘・建武の比, ふのゆへなり、しかるに尊氏父子の心底いさゝか遺恨なきにあらす、某倩思ふに、我, る者と言はんや、所詮此度芳野殿の御味方して、家を起さんとて、小林民部丞重長・, 一文和元年壬辰八月廿八日, 江村山城守秀政兩人を芳野へ使はして、時氏御味方申て、聖運を開しめ奉らんと、四, に、上野國より出て以來、一日も尊氏の爲に私曲をおもはす、一族の好みを重んし, 田の氏族は、あれともなきかことし、此時我れ思ひ立事有とも、たれか我れを武に誇, は京都に有るの處に、若狹國の所領の事によりて、尊氏公父子に憤りを含み、京都を, か家の祖伊豆守義範は正しく八幡殿の嫡傳として、新田上西入道の嫡子たり、今新, 田・高山等も疵を蒙り、山名・細川兩家の軍勢多く討死せしによりて、終に戰ひ破れ, て、京都に引退かる、, に、時氏は領國にあり、嫡子右衞門佐師義, 條中將について奏聞あり、芳野の皇居にて公卿詮議有り、山名家は其先き新田大炊助, 義重か嫡男たれは、今官軍大將を賜といふとも、何の子細かあるへきと、評議一, 癸巳六月七日と言、, 一説曰、文和二年, 二三口二三ニ戸, 尊氏ニ叛キ, テ歸順ス, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 三〇六
割注
- 癸巳六月七日と言、
- 一説曰、文和二年
- 二三口二三ニ戸
頭注
- 尊氏ニ叛キ
- テ歸順ス
柱
- 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日
ノンブル
- 三〇六
注記 (22)
- 1040,788,66,2185て、是を補佐し、所々の急難を凌き、多くの一族郎等を失ひしも、子孫の後榮をおも
- 1271,786,66,2184出て、伯耆國に下り、父時氏に子細を申る、時氏大に怒り、抑我れ元弘・建武の比
- 926,799,62,2172ふのゆへなり、しかるに尊氏父子の心底いさゝか遺恨なきにあらす、某倩思ふに、我
- 577,792,63,2170る者と言はんや、所詮此度芳野殿の御味方して、家を起さんとて、小林民部丞重長・
- 1512,749,57,661一文和元年壬辰八月廿八日
- 462,788,64,2182江村山城守秀政兩人を芳野へ使はして、時氏御味方申て、聖運を開しめ奉らんと、四
- 1156,790,66,2181に、上野國より出て以來、一日も尊氏の爲に私曲をおもはす、一族の好みを重んし
- 693,792,62,2185田の氏族は、あれともなきかことし、此時我れ思ひ立事有とも、たれか我れを武に誇
- 1388,788,66,2183は京都に有るの處に、若狹國の所領の事によりて、尊氏公父子に憤りを含み、京都を
- 809,794,64,2182か家の祖伊豆守義範は正しく八幡殿の嫡傳として、新田上西入道の嫡子たり、今新
- 1754,792,61,2177田・高山等も疵を蒙り、山名・細川兩家の軍勢多く討死せしによりて、終に戰ひ破れ
- 1645,790,56,532て、京都に引退かる、
- 1505,1854,60,1125に、時氏は領國にあり、嫡子右衞門佐師義
- 346,790,63,2188條中將について奏聞あり、芳野の皇居にて公卿詮議有り、山名家は其先き新田大炊助
- 234,792,63,2099義重か嫡男たれは、今官軍大將を賜といふとも、何の子細かあるへきと、評議一
- 1494,1433,42,368癸巳六月七日と言、
- 1538,1448,45,343一説曰、文和二年
- 237,2697,21,107二三口二三ニ戸
- 710,357,43,212尊氏ニ叛キ
- 666,359,42,161テ歸順ス
- 1874,843,47,832南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日
- 1871,2497,44,125三〇六







