『大日本史料』 6編 33 応安3年是歳~応安4年3月 p.307

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前入道嚴覽を攻られしに、吉田入道一戰に利を失て落行けり、是によりて、富田判官, 秀貞を始め、伊田・波多野・矢邊・小幡等皆時氏の旗下に降參す、時氏は河村山城守, 彈正少弼氏範等、和泉・河内・攝津・大和・紀伊の軍勢三千二百餘騎にて發向す、時, 都に攻め登へし、其時官軍を發し、同時に京都を攻らるへしとなり、時氏勅を受て、, て、すなはち時氏を以て、南朝武士の大將とし、錦御旗を下し賜はり、忠戰を抽ん, て、聖運を開らくへきの旨を勅定あり、小林・河村兩人は、錦御旗を賜はりて、急き, 伯耆國に下り、南帝の勅諚の趣を申けれは、時氏父子大に悦ひ、御旗を戴き、先手合, を以て、芳野の皇居に奏聞せらる、南帝御感あり、重て勅諚に、時氏山陰道を經て京, に出雲國を攻んとて、軍勢を卒ひて雲州に至り、佐々木佐渡入道道譽か代官吉田肥, 但馬・因幡・伯耆・隱岐・出雲の軍勢を召集め、又使を北國に使し、越前の足利尾張, 守高經、越中の桃井播磨守直常に、北陸道の軍勢を引具して、京都に攻め登るへきの, を發し、丹波路を攻め登らる、芳野の大將四條中將を始め、楠左馬頭正儀, 一同二年癸巳五月七日に、時氏は但馬・出雲・丹後の軍勢三千六百餘騎を卒して、伯耆, 由を牒し合せらる、, ・赤松, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 正成, 二男, 上ルベキ勅, 京都ニ攻メ, 命ヲ拜ス, 山陰道ヨリ, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 二〇七

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  • 正成
  • 二男

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  • 上ルベキ勅
  • 京都ニ攻メ
  • 命ヲ拜ス
  • 山陰道ヨリ

  • 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日

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  • 二〇七

注記 (24)

  • 1427,769,62,2186前入道嚴覽を攻られしに、吉田入道一戰に利を失て落行けり、是によりて、富田判官
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