『大日本史料』 7編 12 応永16年7月~同年12月 p.30

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かなしみはおなじき袖のなみだほしあへぬこそあはれなれ、, リテナリ、, めならず、太上天皇の尊號を贈らせ給ふ、異朝太明の成祖皇帝は、祭文を作りて恭獻公, と謚し、愁歎の色をふくみ、その心さしを盡し給ふ、此憂に取かさねて、今年七月廿二, 易き心もなかりけり、去年五月六日には、京都前將軍義滿公北山の亭にして薨じ給ふ、, 覺えさせ給ひけれは、諸國の大名諸侍伺候の輩聲をだに高くせず、鎌倉中打ひそまりて, 勝光院殿とぞ申ける、京都の歎き、鎌倉のうれへ、その地は替りてその人は別なれども、, 春秋五十一歳、鹿苑院殿と稱し、道號は天山、法名をば道義と號す、禁裡の御愁傷なの, 前管領朝宗入道遁世, 日又鎌倉の管領從四位下左馬頭兼左兵衞佐滿兼つゐに逝去し給ふ、生年いまた三十、歳、, 持氏, さま〳〵醫療の手をつくさるれ共、更にしるしを得給ふ色も見えず、日にそひておもく, 前管領上杉中務少輔朝宗入道禪助は、去ぬる應永十二年の秋の末に、執事職を辭退して, 同じき十六年の夏比より、左兵衞佐殿御心地煩はしく、國家の政道をもきこしめさず、, 〔鎌倉管領九代記〕三左兵衞佐滿兼逝去, 父沒後家督、于時幸王、十二歳、, 滿兼男、, 左兵衞佐、, 夏頃ヨリ, 病ふ, 應永十六年七月二十二日, 三〇

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  • 滿兼男、
  • 左兵衞佐、

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  • 夏頃ヨリ
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  • 應永十六年七月二十二日

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