Loading…
要素
ノンブル
OCR テキスト
俵に入、粮米の如く馬に付、人に負せて忍ひ〳〵に鎌倉に入來る、滿隆の御内書と禪, 馬にめし、大藏の御所を御出、塔の辻は敵のかためける間、岩殿上の路小坪へ廻り、, り鹿垣を結て待かけたり、木戸の將監此由を見て馳參り告申間、持氏大に驚、急き御, 大輔・同相聟千葉新介兼胤・澁川左馬助、武州には丹黨のものとも、甲州には禪秀か, 十二所にかゝり、前濱より佐介管領の館へ入給ふ、其勢五百餘騎にはすきさりける、, 知にしたかふ蘆名・白川・田村・石川・南部・葛西等、皆以てしたかひ、頓て打立可, 御門の寶壽院に御出有て御旗を上けられしかは、禪秀の郎等、塔辻に下り所々を堀き, 秀の廻状を以、關東中へ觸まはる、意趣は、京都様よりの御下知にて、持氏公並憲基, を大將に取立給へと御けいやく有、不日に思立給ふ、去程に禪秀方の郎等共、兵具を, 常陸國には名越・佐竹・小田・小粟、下野國には那須・宇都宮、奥州には篠河殿の下, 申候由御返答申ける、近國は已に馳來ると聞えしかは、同十月二日、滿隆・持仲、西, 等を討伐し政道をたゝすへきの趣なり、御請申人々には、禪秀か聟新田城主岩松治部, 我か身の代を取、榮花にさかへむとの事にあらす、持仲を猶子として父子の義有、是, 舅武田安藝入道・小笠原一族、伊豆には狩野介、相州には曾我・中村・土肥・土屋、, 應永二十三年十月二日, 一〇五
柱
- 應永二十三年十月二日
ノンブル
- 一〇五
注記 (16)
- 1620,676,60,2193俵に入、粮米の如く馬に付、人に負せて忍ひ〳〵に鎌倉に入來る、滿隆の御内書と禪
- 365,682,59,2143馬にめし、大藏の御所を御出、塔の辻は敵のかためける間、岩殿上の路小坪へ廻り、
- 492,679,59,2186り鹿垣を結て待かけたり、木戸の將監此由を見て馳參り告申間、持氏大に驚、急き御
- 1243,676,58,2188大輔・同相聟千葉新介兼胤・澁川左馬助、武州には丹黨のものとも、甲州には禪秀か
- 237,679,59,2149十二所にかゝり、前濱より佐介管領の館へ入給ふ、其勢五百餘騎にはすきさりける、
- 862,681,57,2185知にしたかふ蘆名・白川・田村・石川・南部・葛西等、皆以てしたかひ、頓て打立可
- 614,676,58,2191御門の寶壽院に御出有て御旗を上けられしかは、禪秀の郎等、塔辻に下り所々を堀き
- 1494,678,59,2187秀の廻状を以、關東中へ觸まはる、意趣は、京都様よりの御下知にて、持氏公並憲基
- 1747,685,60,2182を大將に取立給へと御けいやく有、不日に思立給ふ、去程に禪秀方の郎等共、兵具を
- 990,680,58,2183常陸國には名越・佐竹・小田・小粟、下野國には那須・宇都宮、奥州には篠河殿の下
- 736,678,59,2187申候由御返答申ける、近國は已に馳來ると聞えしかは、同十月二日、滿隆・持仲、西
- 1368,676,59,2187等を討伐し政道をたゝすへきの趣なり、御請申人々には、禪秀か聟新田城主岩松治部
- 1874,684,61,2183我か身の代を取、榮花にさかへむとの事にあらす、持仲を猶子として父子の義有、是
- 1117,683,60,2144舅武田安藝入道・小笠原一族、伊豆には狩野介、相州には曾我・中村・土肥・土屋、
- 136,726,45,427應永二十三年十月二日
- 136,2554,44,110一〇五







