『大日本史料』 10編 1 永禄11年8月~同12年2月 p.915

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又一書こ、中務カ子上野六左衞門, 清信は、義昭公御法體、無程病死すと有、, ヲ纒ヒ、白刃ヲ手ニシ、石匠及人夫ノ中央ニ立ツヲ常トセリ、人ノ其目前ニ, 信長ハ自ラ宮殿ノ設計ヲナシ、凡二萬人ノ職工ヲ役スルニ、工匠ノミナラ, ス、京都ノ頭立テル勢力者ヲモ用ヒ、又其建築ヲ速カナラシメン爲ニ、虎皮, の寵童を、清信養子こ被下候との事實なるへたか、又清信か子六左衞, し、親の中務か幽齋公の御事を色々にさゝへ候得共、おこほ樣とゆかり, 日本西教史〕上(歐文材料第六號譯文, 〓れとも、上野清信と云人、義輝公御代より有て、義昭公、江、若、越、濃御漂, なしと被仰候と云々、, 泊の砌も、藤孝君と同樣ニ、所々御使なとも相勤見へ申候間、南都にて, 五百石被下候、其時の仰に、譯を不知して、禮を受たりと思ふものも有為, 門を被召出、或は秀政か子を被召出との兩説も不分明、又室町日記こ、, たる故に被召置候也、無御存と思ふへからす、又是意趣ニ思ふ事こては, 考こ、上野清信、其身駒野の土民、又養子秀政土民なりしとの事不分明, と云者、忠興君と御奉公と參り、, 〕, 一二五, 増補, 左衞門, 訂正, 關スル考, 清信秀政, 信長自ラ, 丁事ヲ督, ノ出身二, ス, 永祿十二年二月二日, 九一五

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  • 一二五
  • 増補
  • 左衞門
  • 訂正

頭注

  • 關スル考
  • 清信秀政
  • 信長自ラ
  • 丁事ヲ督
  • ノ出身二

  • 永祿十二年二月二日

ノンブル

  • 九一五

注記 (29)

  • 1924,761,59,979又一書こ、中務カ子上野六左衞門
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