『大日本史料』 10編 3 永禄12年7月~元亀元年正月 p.282

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被仰付故、そり田、平ま田迄はやめて跡をまち候間に、陸奧守内設樂越前, へ〓き給へは、北條衆は陣屋をあき、中津川をこし、はんはら山へ落る、信, て中津川を乘こし、牛飼と云所へ坂を乘あけ候を見て、設樂越前親子馬, 父子物見にいて、か〓田乃うしろ谷の上より靜に物見を仕る、甘利衆の, 戰なりか手申へきに、まして家中の各計をもつそ、合戰なるましく候、若, に指置なされ候へは、關東む麦乃御働に、懸る御さお、ひくに殿かりと有, をはやめくにけ候、八町計をひて、甘利衆八騎も歸る、其後信玄公見滿瀬, 門、佐々木十左衞門、木内六郎左衞門、青木彌惣左衞門、此八人馬をはやめ, 聞召、さらは見ませへ押懸候へ、子細は氏康父子居られそさへ、信玄と一, 覺乃武士八騎、米倉丹後、江田加賀、田中淡路、井上文左衞門、水野四郎右衞, 玄公、内藤修理をめし、小荷駄奉行を被仰付、内藤申は、われら上野の郡代, かたをか手田といふ所迄をしかちにまいれと、小荷駄奉行甘利殿衆に, 防戰彼等計にて仕候はゝ、信玄勝利疑あるましきとありく、七日に見滿, 條む手と乃侍大將都合二万あまり、わませ到下を取切居申候由信玄公, 瀬へ押寄らるゝ、惣手乃小荷駄あとの小田はら勢を氣得かひ、惣軍左の, 永祿十二年十月六日, 信玄昌豐, ヲ小荷駄, 兵半原山, 三増峠ニ, ニ逃ル, 北條氏ノ, 至ル, 奉行トス, 二八二

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  • 信玄昌豐
  • ヲ小荷駄
  • 兵半原山
  • 三増峠ニ
  • ニ逃ル
  • 北條氏ノ
  • 至ル
  • 奉行トス

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  • 二八二

注記 (25)

  • 1121,718,63,2131被仰付故、そり田、平ま田迄はやめて跡をまち候間に、陸奧守内設樂越前
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