『大日本史料』 11編 1 天正10年6月 p.530

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武略と云、土民百姓はかはゆき事也と、名言也、, ぬと被仰候とそ、言葉もなくて泪くまれし事度々也しか共、終に何共云出, ヲ立テ庭へ立出ケル故、家來共ハ慈悲ナル人故、定メテ本ノ如クニ巣ノ中, 談有之度御樣子ニ見請候つると申上候得共、聳舅差向て、久しくも居られ, 時々ムゴキ事ヲスル者也ト云レシ、, 或時、忠興君光秀の許にて、御對談の時、側衆座を立候, されさりしか、叛逆ニ而思ひ當りしと、後ニ御咄被成候と也、, 慶長五年六月、會津陣御用意の爲、忠興君大坂ゟ丹後へ御下候時、青龍寺ニ, きにあらす、合戰にならは光秀負たるへしと有、果して御下墨の如ク也、, へ入ラルヽ事成ント思ヒシニ、草履ヲハキ乍ラ、足ニテ踏〓サレケリ、士ハ, 御泊の夜、御咄に、惣て光秀は、常の合戰ゟ城責よかし也、合戰ニ二の心得有, 成可申上と仕候時、暫待候へ、御存分可被仰とて、今度は合戰なくて治るへ, 信長公御生害の砌、京の町人丹後へ御見廻申上候ニ、洛中の取沙汰御尋被, 間、忠興君モ御立被成候、各申けるは、御前ニは、其儘被成御座度也、何そ御内, 細川家記〕, 「明良洪範續編]九日向守、或時ニ、雀ノ子巣ヨリ下へ落チタルヲ見テ、座, 忠興一, 光秀ハ城, 攻ノ上手, 天正十年六月十三日, 五三〇

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  • 忠興一

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  • 攻ノ上手

  • 天正十年六月十三日

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  • 五三〇

注記 (21)

  • 1834,601,64,1355武略と云、土民百姓はかはゆき事也と、名言也、
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