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より、追討之其ためニ去廿七曰に從大坂出馬に及事、と載られたり、, せしこと知られける、故に次條に載たる利家卿八月七曰の親書にも、御先勢はや, 備目録と載給へる目録は、先鋒の備目録也、されは御先勢は八月四曰に大坂を出發, 給ふて上洛し給へりと見えて、川角太閤記に、上樣は大坂を酉の年の七月廿七日に, 御馬を被出也、と見え、また此時、伊与國毛利家の陣所まて越中の容體を爲知給ふ, 朱印の條々注進書も、佐々内藏助事不及上洛、國ニ引籠、剩我まゝを振舞候故ニこ, 〳〵越前まて出申、と載られたり、さて此時秀吉公は、是よりさきに大坂を出發し, の年の七月廿七曰ニ御馬を被出也云々、御先手は前田又左衞門殿父子・金森五郎八, 既發云々、, 右壬寅は即ち四曰にて、前顯秀吉公の親簡に、來四日至越中表出馬候、人數先々之, 一、川角太閤記云、越中の國佐々内藏助、秀吉は四國九國えとり出すなれは、定て隙入, 一、續本朝通鑑云、天正十三年乙酉八月己亥朔壬寅、秀吉北征越中佐々成政、此日先鋒, 可有と可仕なり、さらは内藏助所え御馬を可被出と御議定候云々、上樣は大坂を酉, 森右近・池田三左衞門・稻葉右京佐・加藤作内云々、, 天正十三年七月十七日, 一六五
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- 天正十三年七月十七日
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- 一六五
注記 (16)
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