『大日本史料』 11編 19 天正13年閏8月 p.47

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方の敗軍の兵を援くへしと、吉田の臺に旗を立て備ふ、時に昌幸もまた川端に陣をとる、, 元忠及ひ大久保忠世・平岩親吉等をして昌幸を討しめらる、閏八月二日上田城にをし寄、, 既に二の丸まて攻入といへとも、終に味方敗軍に及ふ、元忠等藤森にて取て還し、人數, 引揚むとす、時に昌幸か嫡子源三郎信幸、五百餘騎を率ゐて横合より鎗をいるゝにより、, モ、タカヒニ位ヲ見テ遂ニ戰ハス、仍テ信州先方ノ士等ニ命シテ眞田ヲ押ヘシメ、井伊, を備へ、輕卒をして〓に鐵炮を打しむ、この時にあたりて、上杉景勝か加勢二陣より進, 直政・松平康重・柴田・岡部・平岩等ト同ク、彦右衞門元忠歸陣スト申傳へ候事、, 元忠等苦戰し、宗徒の兵士二十八人討死す、これによりて加賀川をわたりて引退き、味, 其後井伊直政・松平康重等、數千人ヲ加勢トシテ、信州ニ至リ、廿餘日對陣スト云へト, あたふへきむね御下知ありといへとも、昌幸御むねに應せす、剩豐臣太閤に屬せしかは、, 暫ク對陣シテ、敵ノ討ヘキ色ヲ分明ニ悟リテ後、兵ヲ出スヘシトテコレヲ許サズト云云、, み來るかゆへに、味方又岩下のあたりまて追崩されしかは、元忠すなはち殿して人數を, 〔寛政重修諸家譜〕, 十三年八月、先に眞田安房守昌幸か許に御使を下され、上野國沼田の地をもつて氏直に, 鳥居元忠彦右衞門, 五百, 六十, 元忠歸陣ス, 天正十三年閏八月二日, 四七

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  • 元忠歸陣ス

  • 天正十三年閏八月二日

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  • 四七

注記 (20)

  • 270,719,63,2256方の敗軍の兵を援くへしと、吉田の臺に旗を立て備ふ、時に昌幸もまた川端に陣をとる、
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