『大日本史料』 12編 4 慶長十一年四月~同十二年七月 p.264

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村越太郎左衞門俊吉か女、, ひ菅沼小大膳定利か家人二十騎、同心三十人をあつけられ、同國埼玉郡, 廣正寺に葬る、これ廣正か開基せるところなり、のち代々葬地とす、妻き, 手御陣のとき供奉し、堀久太郎秀政の備にむかひ、物頭某と戰ひ、遂にか, 正綱母き俊吉か女、東照宮に仕へたてまつり、天正十二年四月九日、長久, り、敢て辭したてまつるこはとあたはす、これにらり、忍の城邊三千石、をよ, れを組ぬするのところ、敵兵七八人の中にとりこめられて創をかうぬ, り、殆危かりしを、從者芝山彦左衞門某、高木善左衞門某はせきたり、敵を, 殿の御前に候し、東照宮御戰場のことを談すへきむね仰下され、廣正老, 追しり参〓、その首を得たり、十八年小田原の役にも供奉し、先登して高, 衰せるにより、平川口より乘輿して出仕すへきむ〓、恩命をかうぬる、十, つけらる、五年上杉景勝御征伐のとき、隊下のものを率ゐて、台徳院殿に, 名をあらはす、慶長四年、父廣正か二千石の地を賜ひ、且歩卒五十人をあ, のうちにをいて、養老の釆地として、千六百石をたまふ、そののち、台徳院, 一年七月二十六日、忍にをいて死す、年七十一、法名秀椿、比企郡廣野村の, 慶長十一年七月二十六日, 賜ハル, 乘輿出仕, 養老料ヲ, ヲ許サル, 正綱, 二六四

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  • 賜ハル
  • 乘輿出仕
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  • 二六四

注記 (22)

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