『大日本史料』 12編 5 慶長十二年八月~同十三年十二月 p.217

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をいて釆地千石を賜はり、御朱印を下さる、, て京都に住し、のち淺野但馬守長別かもとにあり、, てはしめて東照宮にまみえたてまつる, 石を領し、外に三萬石之地を預、又戰功の賞として、桐之紋付甲并籠手を賜, る、東照宮よりも懇の仰をうけ、度々登城し御料理なと賜ふ、其後天下御一, 幸俊實は信俊か長男、長俊か養子となる、豐臣太閤をよひ秀頼につのへ, たまふのとき供奉し、のち駿府にをいて御傍に近侍し、御硯石をたまふ, のち明を失す、慶長十五年十月二十六日死す、年四十四、法名紹林, す、十二年十二月二十四日死す、年六十一、法名紹春、, 藥をよひ酒肴等を賜ふ、さきに太閤の命により、中古日本治亂記を著述, 大坂落城のゝち、山林にかくるといへとも、父のゆへをもつてゆるされ, 十四年三月五日、伊勢國一志郡美濃田、安藝郡野崎山田井三邑のうちに, 信俊若年のとき柴田勝家につろへ、のち増田右衞門尉長盛に屬し、その, 宗俊實は信俊か二男、母は某氏、長俊か養子となる、慶長六年、伏見にをい, このとし關東にくたらせ, 〔略譜〕山中長俊後豐臣家に奉仕、從五位下に敍、山城守と稱す、一萬, 十歳, 時に, 著ス, 長俊ノ子, 中古日本, 治亂記ヲ, 孫, 慶長十二年十二月二十四日, 二一七

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  • 長俊ノ子
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  • 慶長十二年十二月二十四日

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  • 617,754,63,1293をいて釆地千石を賜はり、御朱印を下さる、
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