『大日本史料』 12編 6 慶長十四年正月~同十五年二月 p.77

Loading…

要素

頭注ノンブル

OCR テキスト

もに、岐阜の城をせむ、井伊直政、本多忠勝軍監たり、ときに岐阜の後詰と, 高虎、黒田長政、加藤嘉明、生駒一正、寺澤廣高、蜂須賀至鎭、京極高知等とゝ, るのところ、石田三成叛逆のつけあるにより、すなはち台〓をかへされ、, 御追討あるへきよし、軍すてに決す、吉政これをきゝ近江は某か生國, 發向あり、吉政、男吉次とゝもにしたかひたてまつり、下野國小山にいた, にして、よく地理をしれり、ねかはくは先鋒たるへしと言上す、七月二十, 慶長元年七月二十七日、三河國のうちにをいて、一萬四千二百石餘を加, るされて吉政にあらたむ、五年東照宮、上杉景勝御征伐として、會津に御, 六日御下知状をたまひ、上方に發向し、福島正則、池田輝政、細川忠興、藤堂, かへ、天正十六年三月十七日、從五位下、兵部大輔に敍任し、十八年十月二, へられ、すへて十萬石を領し、太閤より朱印をあたへられ、かつ諱字をゆ, 十日、三河國岡崎城をあたへられ、額田賀茂兩郡のうちにをいて、五萬七, 千四百石を領す、文禄四年八月八日、同國西尾城、をよひ尾張國知多郡の, ち三萬石をあつけられ、そのゝち加増ありて、八萬五千七百石餘を領す、, より、三好孫七郎秀次に屬し、五千石を知行す、秀次生害のゝち太閤につ, 慶長十四年二月十八日, (う〓力), ノ先鋒, 關ケ原役, 岐阜城攻, 七七

頭注

  • ノ先鋒
  • 關ケ原役
  • 岐阜城攻

ノンブル

  • 七七

注記 (21)

  • 305,732,63,2134もに、岐阜の城をせむ、井伊直政、本多忠勝軍監たり、ときに岐阜の後詰と
  • 422,725,63,2133高虎、黒田長政、加藤嘉明、生駒一正、寺澤廣高、蜂須賀至鎭、京極高知等とゝ
  • 891,731,60,2163るのところ、石田三成叛逆のつけあるにより、すなはち台〓をかへされ、
  • 774,728,59,2149御追討あるへきよし、軍すてに決す、吉政これをきゝ近江は某か生國
  • 1008,728,60,2147發向あり、吉政、男吉次とゝもにしたかひたてまつり、下野國小山にいた
  • 657,736,59,2140にして、よく地理をしれり、ねかはくは先鋒たるへしと言上す、七月二十
  • 1358,721,61,2156慶長元年七月二十七日、三河國のうちにをいて、一萬四千二百石餘を加
  • 1125,730,60,2147るされて吉政にあらたむ、五年東照宮、上杉景勝御征伐として、會津に御
  • 538,727,62,2147六日御下知状をたまひ、上方に發向し、福島正則、池田輝政、細川忠興、藤堂
  • 1830,735,61,2140かへ、天正十六年三月十七日、從五位下、兵部大輔に敍任し、十八年十月二
  • 1243,743,59,2135へられ、すへて十萬石を領し、太閤より朱印をあたへられ、かつ諱字をゆ
  • 1713,725,60,2151十日、三河國岡崎城をあたへられ、額田賀茂兩郡のうちにをいて、五萬七
  • 1598,722,58,2149千四百石を領す、文禄四年八月八日、同國西尾城、をよひ尾張國知多郡の
  • 1478,722,59,2172ち三萬石をあつけられ、そのゝち加増ありて、八萬五千七百石餘を領す、
  • 1948,740,61,2127より、三好孫七郎秀次に屬し、五千石を知行す、秀次生害のゝち太閤につ
  • 202,726,44,424慶長十四年二月十八日
  • 1541,710,39,142(う〓力)
  • 639,288,43,123ノ先鋒
  • 684,283,42,171關ケ原役
  • 311,282,43,171岐阜城攻
  • 208,2463,43,78七七

類似アイテム