『大日本史料』 12編 8 慶長十六年三月~同年十月 p.123

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りぬ、, 土佐國長曾我部沒收して後, の似せ状を認め、所々に披露させて穩ならす、秀吉の怒憤大形ならす、父子, 頃き九月末、良寒かりしに、破れたる柿帷子一重を著たり、城上下の軍兵是, 蒙られし事、天下の人普く知る處也、然れとも長政公き少しも顏色に不顯, り、時去り、關ケ原敗軍の後、石田生捕れて、二條御城の駒よせに面縛せらる, へき生質にはあらす、長政公は指當有罪人をは、別て惠み深く撫し憐給ふ, 彼讒者の糺明をも好みなくて過し事、偏に長政公寛仁大度の質備し故な, と云、其證據は、石田三成の讒言ニよつて、長政公數度難ニ値、秀吉の不審を, を見て、皆嘲笑ひて過し中に、長政公間近く立寄給ひて、治部少輔嘸寒かる, して、秀吉の一代は、美敷相役の勤あり、就中、隱謀の強きは、幸長公謀叛催促, 速に蟄居の難ありしか共、無實故、幾程なく事解く、職祿故のことし、此後も, 三成、面目なき躰にて、打うなつきて赤面したりと、京童子今の世まても語, たしと演ひて、自身著用之道服をとき、從者に仰て著せしめ給へは、流石の, を以て考るに、差當り死に近つきたる玄蕃に向ひ、ケ樣の惡口なと申さる, 一揆等蜂起の聞へ, 天正五年、秀吉四國を攻な, ひけ、元親降參のあとなり、, ヲ燐ム, 石田三戌, 惠深シ, 慶長十六年四月七日, 一二三

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  • 天正五年、秀吉四國を攻な
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  • 石田三戌
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  • 慶長十六年四月七日

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  • 一二三

注記 (23)

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