『大日本史料』 12編 8 慶長十六年三月~同年十月 p.340

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被仰出、則御感状を被下, しつか嶽の南に御はたを立させられ、, 人、御預被成、いつれも名をあらため、虎之助は主計頭, 事、一稜すくれて被遊したる御感状を頂戴し、諸人に打まさりて威雄有、さて、, り〳〵みれは、はや合戰すきて、小幡の郷へ、家康公、信雄卿入勢被戌、兩軍の, 本御著城、今度於志津嶽、抽軍功七人之者被召出、今迄何程つゝ知行を遣し, 虎之助事、鳥取の城攻よりこのかた、をもきらさるものに、小分の領知を遣, 計頭も、先勢の銕炮頭なれは、與力を引連、段々におさせ、龍泉寺の坂をくた, を吹立、諸軍勢可打立と、ふれまはしたまへは、一番貝に先勢おしいたす、主, 及合戰、池田勝入、森武藏守討死之由、卯月九日、於于樂田注進有、秀吉公、急貝, 置事、さそや無念にありつらん、七人共に、一同に三千石の加増をすへしと, 天正十二年三月三日、織田信雄卿と秀吉公と、御中不和になり、於尾州犬山、, 侍共、しつ〳〵とのく、敵に、星野武右衞門、主計頭に申けるは、いさや無理の, 翌日、七人ともに被召出、物頭に被仰付、虎之助には、銕炮百五十挺、與力二十, 置つるやと、御尋被成、加藤虎之助四百七拾石, ニ被仰付、, 五月朔日、江州到坂, 七人の内虎之助は、戸波をうちとりし, と御受申上、さても〳〵、, ○中略、感状, ○中略、七本槍ノ, ヲ載セタリ, ○中, コト二カヽル, ○中, 略, 略, 主計頭ト, 稱ス, 慶長十六年六月二十四日, 三四〇

割注

  • ○中略、感状
  • ○中略、七本槍ノ
  • ヲ載セタリ
  • ○中
  • コト二カヽル

頭注

  • 主計頭ト
  • 稱ス

  • 慶長十六年六月二十四日

ノンブル

  • 三四〇

注記 (31)

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  • 1811,636,56,1134しつか嶽の南に御はたを立させられ、
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