『大日本史料』 12編 13 慶長十八年九月~同十九年四月 p.575

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日あらすして、兩御所も御出馬あるへし、會津の守り怠るへからすとの, 後陣は山形よりの通路を遮る、里見寄手の形勢をうかゝぬのところ、前, め、上杉か軍士二百餘人、雜兵四百八十餘人を討取、十八日、伊達政宗より、, 利を得、なを追撃して、險阻にせまわ、穗村、椎野、をよひ平田石見某をはし, て、草苅は約の〓く、後の山より、不意におこりて鯨波を發し、攻戰ひ、大に, 來し、御先手の面々、すてに岐阜城を乘崩し、秀信兄弟をはしめ、後詰とし, 後の備、その間遠く、ことさら長途に人馬もたかれし躰に見えしかは、先, て發向せし石田三成、島津等の軍勢、殘なくうちとり、その人數をもりて、, として、長谷堂表の加勢たらしむ、ときに兩度に下されし御書、追〳〵到, 御旨なり、二十四日、義光、みつから長谷堂に出張す、このとき、關原の戰ひ, 草苅志摩某をして、物見山の間道を廻らしめ、すてにして、追手搦手、おな, しく門をひらきて、切て出しに、寄手これかために備を亂す、こゝにをい, 銕炮百二十挺をゝくり、二十二日、伊達上野介政景、石川與兵衞某を部將, 佐和山にとりつむるのあひた、落城兩三日に出〓つらすとの注進あり、, 勝の軍將穗村造酒之丞某、椎野彌七郎某、物見山の麓に陣して、城を襲ひ、, 伊達政宗, 關原ノ捷, ノ援軍, 報至〓, 慶長十九年正月十八日, 五七五

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  • 伊達政宗
  • 關原ノ捷
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  • 慶長十九年正月十八日

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  • 五七五

注記 (21)

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