『大日本史料』 12編 13 慶長十八年九月~同十九年四月 p.597

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にれは、御自害あり、, 追ちらし、其後山形へ來てつろふ、其節の狂歌に、, 殿の館へをし寄ル、東海林四郎等かけ出、散々に戰ひ討死ス、其間に、清水大, みなうたれ、其身もあまた手を負たれは、しをりの内へ入て自害す、此兵部, 切て出、伊豆守を切倒ス、對馬守をも切付ケ、双方散々に戰ふ、しかれとも、兵, 夫殿は、爰を落チ、川向の賤の屋ニかくれゐ給ひしに、訴人有て、大勢をし寄, は、本ト仙臺にて、政宗の命にしたかはす、軍兵をむけられしに、毎度寄手を, 部方は、皆兵具をしたれは、志村、下か家來、大かた討るゝ、夫より一栗は、添川, る、道ニて一栗兵部か門前を通りし折、兵部兼て用意シ、我か門之内ニ待居、, の方へ立退しを、新關豐後守、二百余人にてをし寄、散々ニ戰ふ、一栗家來を, たれは、家親、内々老臣へ仰合され、延澤能登守、上山大膳、夜中急に清水大夫, 慶長十九年、鶴岡の城代新關因幡方へ、志村伊豆守、下對馬守同道にて行け, 政宗はこのは猿にもさも似たり一の栗をむきろ手そする, 〔北楯大學家記〕, 羽守、間もなく遠行被申、子息駿河守代ニ罷戌、知行壹万石取候而、一栗兵部, 其後出, 二カヽル、十七年三月十五日二アリ、, ○上略、北楯利長、狩川大堰修築ノコ, ○莊内古, 事抄所載, 氏滿自殺, 志村伊豆, 一栗兵部, 守ヲ殺ス, 慶長十九年正月十ハ、日, 五九七

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  • 二カヽル、十七年三月十五日二アリ、
  • ○上略、北楯利長、狩川大堰修築ノコ
  • ○莊内古
  • 事抄所載

頭注

  • 氏滿自殺
  • 志村伊豆
  • 一栗兵部
  • 守ヲ殺ス

  • 慶長十九年正月十ハ、日

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  • 五九七

注記 (26)

  • 1551,639,54,563にれは、御自害あり、
  • 617,629,57,1434追ちらし、其後山形へ來てつろふ、其節の狂歌に、
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