『大日本史料』 12編 19 元和元年五月 p.530

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忠義の心有に依て、心ヲ不移、西國の諸軍勢水ニ溺レ死するもの有といへ, したる曲ヲ出しおると惣軍詈しと也, と、聞より早ク乘込もの多キ也、森田彌右衞門云やうは、是程になき小城に, 有之故、當家の陣場より今橋京橋なと筋違て見へ渡り、林氏云にるは、男女, 共、當家の人數は壹人も水に溺れす、是今西か案内ヲ出せし故也、并兵糧米, 宮内少へ兵粮米馬大豆川の瀬踏の水練等縁ヲ以頼むといへ共、忠政君へ, 共差物もなく、赤キ着物ヲ着し、橋々へ押重り堺口へ出る躰、落人にて有覽, ても、落城の時は二百三百かたまりて出るもの也、崩際堅圓の鑓高名とは, 馬大豆竹束の竹小道具ニ到迄、莫大の奉公申上し也、今西掃部はしまつし, よと云所ニ、天守櫓々の挾間より煙出ると人々云也、大坂町口は悉ク燒キ, 詰んとて、諸軍はずんて居たる所ニ、林助右衞門進み出、城は落るぞ覺悟せ, て竹を二つ切ニして竹束ヲ拵し故、玉越て手負死人多、御國の臺所の世帶, 同七日、當家の諸軍勢殘らすなから川ヲ打越、忠政君の下知をまち、城へ取, 此大藏卿といふは、中川瀬兵衞清秀, の從弟山東つ妻也、清秀の女ニ出生, 有し於松殿、因州鳥取の城主備中守長幸へ祝言有之、御越の節、大藏卿は介, 添ニ參り、慶長十八年於松殿卒給ふの後、大藏卿は津山へ歸參、女中頭ニ, とめ, 也, し也、, 追撃ス, 落武者ヲ, 元和元年五月七日, 五三〇

割注

  • 此大藏卿といふは、中川瀬兵衞清秀
  • の從弟山東つ妻也、清秀の女ニ出生
  • 有し於松殿、因州鳥取の城主備中守長幸へ祝言有之、御越の節、大藏卿は介
  • 添ニ參り、慶長十八年於松殿卒給ふの後、大藏卿は津山へ歸參、女中頭ニ
  • とめ
  • し也、

頭注

  • 追撃ス
  • 落武者ヲ

  • 元和元年五月七日

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  • 五三〇

注記 (24)

  • 1698,650,56,2203忠義の心有に依て、心ヲ不移、西國の諸軍勢水ニ溺レ死するもの有といへ
  • 1230,651,56,1144したる曲ヲ出しおると惣軍詈しと也
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