『大日本史料』 12編 20 元和元年五月 p.535

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院殿は大坂を御退の時、共に立退する由申傳ふ、, のりさわひに候迚、即時に殺しけると也、將は是を生さんとし、臣は是を殺, たりす、, と申、此外四五人落城之後、籠城の者の子共を召捕、いつれ國松やらん見知, と呼、夫をあたりの者とも聞付、訴人に出ル、果して國松君也、伏見城へ捕へ, 高野山へ遣し出家可爲致と上意有之、本多佐渡守正信御諫申、青道心は後, 御隱し御座候、八歳故、近所子共と遊候、子共申候は、御身か名は何と言と問、, す、命を背くの人なり、然共實に忠といふへし、正信にあらすんは殺す事あ, 參候、少御腹下ルに付、粥可上と御局申候〓、粥を上る、年來被召仕候十二三, り難し、食事すゝめたる時、能をせよとのたまひたれは、是平人の子にあら, 御返事に、我は若君樣と云と被仰、子共どち、おかしき名也と口々に、若君樣, す、常々能見物被致ける故也、當年六歳也、大御所御透見被成、不便の事なり、, する由云傳ふ、彼善兵衞か妻の墓、天秀和尚の墓共に東溪寺に有之由、天樹, 武邊雜談〕乾秀頼公御子國松君、名乘は秀勝と申候、伏見農人橋近邊に, 〔落穗雜談一言集〕, 大坂落城の後、秀頼公の小兒を於伏見捕ふ、國松丸, 〔落穗雜談一言集〕〓大坂落城の後、秀頼公の小兒を於伏見捕ふ、國松丸, 九, ヲ出家セ, シメテ助, 名ヲ若君, 家康國松, ス本多正, 命セント, 國松自ラ, 樣ト云ヒ, シヨリ露, 信之ヲ諫, ムトノ説, 元和元年五月二十三日, 五三五

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  • ヲ出家セ
  • シメテ助
  • 名ヲ若君
  • 家康國松
  • ス本多正
  • 命セント
  • 國松自ラ
  • 樣ト云ヒ
  • シヨリ露
  • 信之ヲ諫
  • ムトノ説

  • 元和元年五月二十三日

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  • 五三五

注記 (31)

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