『大日本史料』 12編 34 元和六年七月~同年閏十二月 p.407

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を以被答ける故、云出ける人迷惑有之候と也、, 僧となり、京師本能寺に在て學ふ事數年、歸て親戚を視る、京に趣に及ん, 讀たり、居を榔内に賜ふ、, 大なりとせさらんや、寛陽爲に容を改む、進見することに極諫を致す、後, 曰、今や吉野山及ひ國中大禁あり、宣王の囿の四十里のみにあらて、民〓, 曰、寡人之囿方四十里、民猶以爲大何也といふに到る、書を棄て席を改て, ざれて被仰けれは、如竹威儀をとゝのへ、扨々私こも一度聖人ともいわ, 返上仕候旨被申上素るに、御取次の人あ、如竹、聖人風なる事を被申よと、, 世に此道あらん事を思ふ、果して然り、於是盡く其學を廢さ、文之に學ぶ、, に骸骨を乞て、屋久嶋に歸る、府下に在るの日、士大夫の爲に尊ひらる、金, 嶋へ罷歸候へは、飯料も有之、飢申儀ニ而は無之候間、難有は奉存候得共、, て府下を通る、文之朱子の學を講するを聞き、沾々として喜て曰、吾固り, またき念願こて候處こ、聖人風な抔被仰候は、別而祝著の事こて候あ、實, 遂に佛を去て儒と爲な、然とも髮を長ふせに、妻子を畜へす、寛陽廟に侍, 常に就て講を聞く、一日孟子を講し、齊宣王, 〔譚籔筆録〕○通昭象五所收一如竹は隅州屋久嶋舵工の子なり、幼より, 元和六年九月三十日, 今厩, ノ地, ナル, 島津光久, 致仕シテ, 屋久島ニ, ノ侍讀ト, 歸ル, 四〇七

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  • 今厩
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  • ナル
  • 島津光久
  • 致仕シテ
  • 屋久島ニ
  • ノ侍讀ト
  • 歸ル

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  • 四〇七

注記 (26)

  • 1431,726,59,1349を以被答ける故、云出ける人迷惑有之候と也、
  • 1201,721,59,2121僧となり、京師本能寺に在て學ふ事數年、歸て親戚を視る、京に趣に及ん
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  • 1660,727,62,2113ざれて被仰けれは、如竹威儀をとゝのへ、扨々私こも一度聖人ともいわ
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