『大日本史料』 12編 38 元和七年六月~同年十一月 p.49

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石を給し、是ゟ、今以て崇敬尼と爲とて、二季、相かわらす金貳百疋ツヽ付屆たへすと、崇, か、されは朝覺院崇敬尼の實方の家は、今に松平土佐守藩中花井半助といふもの、今只百, 万石を進ぜさせ賜ふ、しかるに忠輝卿、後〳〵武功に誇せ給ひ、慢心きざし、御所行よろし, からぬ故に、飛騨の國高山へ配流し給ひけれとも、猶も御不行跡のみ多けれは、高山を轉, して、信濃の國諏訪へ謫せられ給ひ、重き御愼なりしが、御長壽にして、九十三歳迄存命, の処に深秘ありと、御記録に記したるは、恐らくは子を産たるなるべしと、左もあらん, なり、此草菴に入て、崇敬尼と稱し、念仏のみに暮されけるか、崇敬尼沒後一寺となし、件, く、殊に力量まし〳〵て、合戰の度〳〵御武功ありけれは、越後の國高田におひて、六十余, ともいふ、案するに、お茶阿の局、御種を孕し事は、前後只一度なれとも、出産若君御誕生, の後なれは、御佗も叶はさりき、これによつて、お茶阿の方は、世の盛衰を觀し、比丘尼と, の尼を開基として、崇敬寺とは名付たり、一説に、崇敬尼は駿河大納言忠近卿の實母なり, し給ひ、寛永中、御世三代迄御壯健なりける、されは台徳君御世の時、件のお茶阿の〓、御, に水戸と、次第してならぬへきに、惜ひかな、此御家つふれたり、其所謂は、忠輝卿御心猛, 勘氣の御佗を度〳〵願はれしかとも、神祖の御尊慮をいかゝとおぼしめし、殊に御他界, 元和七年六月十二日, 宥免ノコト, ヲ歎願シテ, 比丘尼トナ, 松平忠輝ノ, 容レラレズ, ルトノ説, 四九

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  • 宥免ノコト
  • ヲ歎願シテ
  • 比丘尼トナ
  • 松平忠輝ノ
  • 容レラレズ
  • ルトノ説

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  • 四九

注記 (22)

  • 278,633,62,2169石を給し、是ゟ、今以て崇敬尼と爲とて、二季、相かわらす金貳百疋ツヽ付屆たへすと、崇
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