『大日本史料』 12編 47 元和八年八月 p.32

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京極修理太夫高三、始は高行、又高治とも云ふ、父の遺城を相續す、, とあり、を賜ふ、舅毛利河内守秀頼の領せる處なり、慶長五年の秋美濃に在りて岐阜を, 濱に火を放ち、直に大津に至る、高次の城、〓に陷る、是歳の冬十一月丹後の國を賜, り、田邊の城に移る、元和八年八月十二日卒す、年五十一歳、子三人あり、長を高三と, 墜し、夫より關ケ原に至り大に戰功あり、〓にして兄高次危からんと暇を乞ひ、まづ長, を高廣といふ、高廣の母は故の毛利河内守秀頼の女なり、是以之を嫡子とす、よつて家, 抑、高知の長男は京極丹後守高廣、後安知と號す、子細有て其采地七萬五千石にて、, を繼ぐ、元和八年初て宮津に城郭を築き、爰に移る、七萬八千石を領す、, なり、故あつて高知の猶子となる、一萬石に分て中郡峯山に館を造り、之に居る、次, 〔田邊記〕, 先規の如く、一國一城十二萬三千石領收し、在世廿一年、元和八壬戌年八月十二日卒、, 與へ江州蒲生郡に居る、修理太夫と稱す、文祿元年信州伊奈郡に十萬石、一説に八萬石, いふ、三萬五千石を分て田邊の城に居る、次を高道といふ、實は朽木兵部少輔宣綱の子, 一同年秋八月、京極丹後守高知、此時羽柴修理太夫高知と云ふ、信州より田邊へ移り、, 元和八年八月十二日, 三二

  • 元和八年八月十二日

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  • 三二

注記 (16)

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