『大日本維新史料 編年之部』 2編 4 安政1年2月11日~同年2月23日 p.712

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でて裁定を乞ふの外なしとし、八月十二日左の如く我に通報し來れり、, 即死、三名は負傷せりとの報あり、農民に對して斯く無慈悲の取扱をなすにおいては我々歸國するとも行末覺束なし、, 代官頭取寺木惣内等の出張を得て、漸く授受の手續を終へたり、農民の數は六日の取調にては八千七百人なりしも、, も歸國を肯んせず、爲に仙臺藩よりは幕府に屆出でてその裁定を仰ぐべしといひ、南部藩よりは幕府への屆出を猶豫, 今一度騷ぎ立てなば、三閉伊を仙臺領とすること困難にあらざる旨内通し來り、閉伊郡の農民にして、見舞と稱し竊, ぜられたり、これ等のことありたるより閉伊郡の農民再び蜂起の兆あり、殊に仙臺領に留まれる四十五名の農民より、, 恨を酬ゐたるものなりといふ、尚その後多少不穩の行動ありたるも、役人等警衞して兎に角無事に歸村せしめ、この, め強て大奧に入りたるため、利濟公の怒に觸れて彌六郎・五左衞門は免職の上差控を命ぜられ、徳之助また差控を命, に仙臺領に赴くものあり、事態盆困難となれるより、盛岡本誓寺と花卷安淨寺の住僧を氣仙郡に遣し、唐丹村長安寺, 衞門・川島杢左衞門等の言を信じてこの事件を輕視し、家老等事情を述ぶるも意に介せず、果ては病氣と稱し何人に, その後追々歸國し、授受の際は二千九百九十七人に減じたり、而してこれ等の農民等歸途につき領内に入るや否や、, も面會せず、されど解決の急を要するものあるより、家老南部彌六郎・楢山五左衞門は、近習頭花輪徳之助に案内せし, 石より仙臺領に入らんとするに際し、市兵衞が平田番所の警衞嚴重なりと詐り、篠倉山の間道を導き困難せしめたる, 斷然歸國すまじとて三僧の勸告を拒絶したるより、三僧手を空くして歸れり、仙臺藩にてもまたこの上は幕府に屆出, 方面はこれにて落着したるも、仙臺領に殘れる四十五名の農民は首領株のことゝて、態度強硬にして如何に慰諭する, されたしといひ、彼我の間に幾數囘の交渉を重ね事態困難となれるも、當時實權を握れる利濟公は石原汀・田鎖茂左, 例の大旗を押立て法螺貝を吹き、〓の聲を揚げ、釜石町の給人猪又市兵衞の居宅倉庫を破壤したり、これ農民等が釜, の住僧と共に四十五名に歸國を勸告せしめたるが、時恰も宮古通寺阪口にて農民等役人のために銃撃せられ、一名は, 以飛札致啓上候、彌御堅固可被成御勤仕珍重御事に御座候、然ば御引渡殘の百姓共、猶文申諭致御引渡候樣、再三被, 六郎ノ處罰, 三僧ノ幹旋, 家老南部彌, 兩藩ノ交渉, 農民ノ歸國, 仙臺藩通達, 七一二

頭注

  • 六郎ノ處罰
  • 三僧ノ幹旋
  • 家老南部彌
  • 兩藩ノ交渉
  • 農民ノ歸國
  • 仙臺藩通達

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  • 七一二

注記 (26)

  • 344,642,48,1334でて裁定を乞ふの外なしとし、八月十二日左の如く我に通報し來れり、
  • 518,637,50,2234即死、三名は負傷せりとの報あり、農民に對して斯く無慈悲の取扱をなすにおいては我々歸國するとも行末覺束なし、
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  • 879,641,50,2235ぜられたり、これ等のことありたるより閉伊郡の農民再び蜂起の兆あり、殊に仙臺領に留まれる四十五名の農民より、
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