『大日本維新史料 編年之部』 3編 6 安政5年4月26日~5月10日 p.308

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に斬に處せられた、和泉守は、松陰と境遇を同じくするところあり、若し彼の建言が、幕府有司の眼に觸れてゐたな, 一口やらう』と言つた、左近は伯父の言を諾ひ、太宰府に歸つて、欣々として父加賀に諮つたが、加賀は大に驚き、左近, た、長門の吉田松陰の如きは、其の足一歩も京都を踏まざるに、上書建白の罪によつて、謫居、松下村塾に捕へられ、遂, 戸への詔勅降下問題等で、〓紳堂上に入説した志士・浪士は、井伊大老のクーデターに遭つて、悉く艾除し盡くされ, 一人のみに上ることゝした、之れ三條實萬の生母は、信全の生母貞心院の實姉に當り、實萬と信全と骨肉の關係ある, 太宰府に遣ばして、「急務三箇條」「天命論」「國體策」の三篇を信全の内覽に供し、野宮卿への上書を中止して、三條卿, 田を訪れるに會つて、左近と角照三郎とを上京せしめんと思ひ、和泉守は其の事を左近に語り、『うまくやつたら刀を, て、三條・野宮兩卿に傳達方を頼まんとしたが、之れも亦果すこと能ばず、六月六日には、小野加賀の長男左近〓, 保臣弟盆雄を名代として爲差登申候、盆雄儀も不才には御座候得共、忠孝之道に志御座候に付、私達同樣被爲思召、, の年少なる必ず大事を過らんことを惧れて、之れを阻み、幸ひ延壽王院信全が、上京することゝなつてゐたから、加賀, 全體私等兩人之内罷登り、御直に奉申上度奉存候得共、保臣儀は國元にる罪御座候な、即今遠行仕候事不相叶、無據, から信全に謀り、其の許諾を得て、和泉守に告げたが、彼は誠に菅神の加護に出るものと打ち喜び、七月八日、外記を, 乍恐拜〓も被仰付候樣奉願候、, ら、彼も亦忽ち身首處を異にして、松陰と同じく、武藏野の露と化し終りしならんも、其のこゝに至らなかつたのは、, 然るに、外記は差支があつて上京することが出來ず、故に彼ば翌月外記及び主馬を肥後に遣はし、阿蘇大宮司に託し, 又「南僊日録」に、, を利用したのであつた、略〓然るに、此の年九月、間部下總守入洛して、戊午の大獄を起し、將軍繼嗣問題・外交問題・水, 者に, 十七日、, ヽ晴、午前迂村來、謀京行、, の水, を利用したのであつた, 同年, ・〇中, 隆助, 四月, 後の, 安政五年四月是月, 三〇八

割注

  • 同年
  • ・〇中
  • 隆助
  • 四月
  • 後の

  • 安政五年四月是月

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  • 三〇八

注記 (29)

  • 310,643,55,2211に斬に處せられた、和泉守は、松陰と境遇を同じくするところあり、若し彼の建言が、幕府有司の眼に觸れてゐたな
  • 1010,653,59,2208一口やらう』と言つた、左近は伯父の言を諾ひ、太宰府に歸つて、欣々として父加賀に諮つたが、加賀は大に驚き、左近
  • 396,641,55,2215た、長門の吉田松陰の如きは、其の足一歩も京都を踏まざるに、上書建白の罪によつて、謫居、松下村塾に捕へられ、遂
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  • 662,654,56,2199一人のみに上ることゝした、之れ三條實萬の生母は、信全の生母貞心院の實姉に當り、實萬と信全と骨肉の關係ある
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