Loading…
要素
頭注ノンブル
OCR テキスト
四高山彦九郎と蒲生君平, 政元年の義祭には、新に祠堂を興して其の像を安置し、之を楠社と稱した。爾來, 高山彦九郎は延享四年五月八日を以て上野新田郡に生れ、諱を正之といふ。, 都に上つて親しく禁闕を拜し、留まること歳餘、同三年の春歸郷した。次いで安, 十六歳の時で、其の禁門前に稽首せる有樣は、, を讀破して多大の感化を受け、尊王殉忠の念止み難く、明和元年十八歳にして、京, 幕末の形勢逼迫と共に、眞木和泉・吉田松陰以下多數の志士は、何れも楠公の忠誠, を歴遊して京に入り、翌四年歸國した。而して第三次の上洛は天明二年の暮、三, を範とした。薩摩藩士有馬新七の如きも鹿兒島郊外に楠公社を建てて、一藩の, 新田義貞〓下の十六騎の一人高山遠江守は其の祖に當る關係から、弱冠「太平記, 永三年正月再び西遊の途に上り、先づ伊勢神宮に詣で、紀泉河攝・山陰・山陽の諸地, 志氣を鼓舞したものであつた。, 禁門を拜し奉らむとて、先づ仙洞御所の御門前を經る時に、地上に稽首し奉る、, 尊崇, 高山彦九, 郎の朝廷, 第一編尊王論の發達, 一七八
頭注
- 尊崇
- 高山彦九
- 郎の朝廷
柱
- 第一編尊王論の發達
ノンブル
- 一七八
注記 (18)
- 1149,970,54,788四高山彦九郎と蒲生君平
- 1702,567,59,2267政元年の義祭には、新に祠堂を興して其の像を安置し、之を楠社と稱した。爾來
- 1035,630,59,2160高山彦九郎は延享四年五月八日を以て上野新田郡に生れ、諱を正之といふ。
- 694,566,60,2267都に上つて親しく禁闕を拜し、留まること歳餘、同三年の春歸郷した。次いで安
- 339,570,59,1271十六歳の時で、其の禁門前に稽首せる有樣は、
- 812,564,59,2271を讀破して多大の感化を受け、尊王殉忠の念止み難く、明和元年十八歳にして、京
- 1593,563,58,2269幕末の形勢逼迫と共に、眞木和泉・吉田松陰以下多數の志士は、何れも楠公の忠誠
- 457,569,59,2261を歴遊して京に入り、翌四年歸國した。而して第三次の上洛は天明二年の暮、三
- 1479,568,60,2259を範とした。薩摩藩士有馬新七の如きも鹿兒島郊外に楠公社を建てて、一藩の
- 922,563,60,2283新田義貞〓下の十六騎の一人高山遠江守は其の祖に當る關係から、弱冠「太平記
- 574,570,60,2258永三年正月再び西遊の途に上り、先づ伊勢神宮に詣で、紀泉河攝・山陰・山陽の諸地
- 1373,568,55,867志氣を鼓舞したものであつた。
- 215,640,65,2206禁門を拜し奉らむとて、先づ仙洞御所の御門前を經る時に、地上に稽首し奉る、
- 960,319,40,78尊崇
- 1050,318,39,162高山彦九
- 1004,319,43,161郎の朝廷
- 1822,697,47,522第一編尊王論の發達
- 1824,2354,40,110一七八







