『維新史』 維新史 3 p.59

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關ケ原苦戰の状を偲び、翌日歸麑、「關ケ原軍記」を讀むのが慣習であつたといふ。, 時代より、近衞家と淺からざる縁由を結べることを擧ぐべきである。而して近, く齊彬に至つては、左大臣近衞忠熙の内奏により、其の赤誠畏くも天聽に達して、, 至つたのである。第二には、其の封土は薩摩・大隅・日向の三國に跨りて七十七萬, ることあり、是に國富み、兵足りて、囘天の大業に遺憾なく活躍するを得たのであ, 宸筆の御製を拜受するの榮を擔ひ、一藩の尊王心は是に彌が上にも向上するに, 石に上り、加能越三州を領せる前田家に次ぐ第二位の大々名なりしことを擧ぐ, ず、其の後財政一時逼迫を極めたが、天保年間調所笑左衞門, 九月十四日の夕には甲冑を著し、藩祖義弘を祀れる伊集院郷の妙圓寺に詣でて、, 策を講じたが爲に、窮状は忽ち打開せられ、殊には琉球貿易を營んで巨利を博す, つた。第三には、藩士の多數が所謂外城の制を採つて、各郷に於いて農耕に從事, し、質實剛健、中世武士の俤を存せることを擧ぐべきである。城下居住の者も亦, が出でて鋭意救濟, べきである。即ち島津氏は關ケ原の戰に西軍に與しながらも、聊かも減封され, た。今薩州藩が國事に關係するに至れる所以を考察するに、第一には、遠く鎌倉, 郷, 廣, 第二章薩州藩の進出第二節島津久光の率兵上京, 五九

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  • 第二章薩州藩の進出第二節島津久光の率兵上京

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  • 五九

注記 (19)

  • 320,559,64,2275關ケ原苦戰の状を偲び、翌日歸麑、「關ケ原軍記」を讀むのが慣習であつたといふ。
  • 1745,549,64,2307時代より、近衞家と淺からざる縁由を結べることを擧ぐべきである。而して近
  • 1625,550,69,2320く齊彬に至つては、左大臣近衞忠熙の内奏により、其の赤誠畏くも天聽に達して、
  • 1392,559,66,2303至つたのである。第二には、其の封土は薩摩・大隅・日向の三國に跨りて七十七萬
  • 798,556,63,2305ることあり、是に國富み、兵足りて、囘天の大業に遺憾なく活躍するを得たのであ
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