『保古飛呂比』 保古飛呂比 2 元治1年~慶応3年 p.303

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督も如何哉と種々風説もあり、孰れも痛心の處、同十二月廿八日、豐信公へ御家督無相違被仰付、, 格を守れる因循の人々要路に當り、天保の初年に跡〓せる感ありたり、, 因に云ふ、此時豐〓公西洋流御開之最御手始めなりと申事也、, 豐信公は御英邁の君なれども、支流より御相續にて、未だ廿二歳の御時なれば何事も思召の如く, 行はれざる御事なりと見え、其頃御述懷の御詩、吾固布衣身豈計云々の御作あり、右の如き場合, なり、急速江戸表へ御立なり、御家中は勿論、一般人民に至る迄、重々の御凶事にて、此上御家, 依右、去辰十二月十八日、屹度遠慮被仰付置候二付、猶屹度可被仰付筈之處、此度は御宥恕を, 趣を以、隨意に御斷、再三申出置、追る御請恐入等雖申出、右子細に付、被當思召儀有之、, 上下大に安堵す、されども御凶事相續き、一時は浮世を味氣なきと迄、人氣も挫けたり、此間古, 公者、嘉永元年六月十六日、江戸御邸こて御逝去、未だ御世子なく、御弟君式部豐惇公御養子に, 被立、急に江戸表へ御參勤の處、豐惇公にも御道中より御不例、同年九月十八日江戸邸にて御逝, 養徳公御同樣世子君不被爲在に付、南邸照衞豐信公を以て豐資公の御養子に被成、御家督御願と, なれど、文武の事は、養徳公の御志を被爲繼、御世話ありたり、然るに、儒官は世襲にして、, 以、今日前躰に被差免、, 去、, 讓恭院, と奉唱、, 卷十五慶應二年, 三〇六

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  • 讓恭院
  • と奉唱、

  • 卷十五慶應二年

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  • 三〇六

注記 (19)

  • 807,578,61,2319督も如何哉と種々風説もあり、孰れも痛心の處、同十二月廿八日、豐信公へ御家督無相違被仰付、
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