『大日本史料』 10編 17 天正元年8月 p.15

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國八東郡に御在城、武田と御合戰これありと申ものもこれあり候、當國布施の城た, へ申候儀も説之に申候、彌次郎殿と申御屋形の代にくつれ申よし、彼の彌次郎殿打, 其節は國中殊更亂國となり、屋形とは申候へとも、國主に用ひ申ものこれなく、國, 此時武田を討留め、武田はたへ申よしに候、夫より禪高公は鳥取城に御座候へとも、, 公又武田と中惡しく御なり、禪高公を武田追出し候ゆへ、丹後へ浪人なさるゝ所に、, 侍たかひに取合是あり、禪高公も色々御働これあるよし申候、按するに、鳥取城は, は、すなわち當國布施屋形の御息に候、武田布施をくづし候てより方々御浪人、當, 還俗して、因幡國岩井を知行す、此人の事をこの記に誤り傳ふる成へし、其後禪高, 年卒去あり、豐國此事を憤り、山中鹿之助を相かたらひ、武田豐前を討ほろほす、, 出雲浪人山中鹿之助、禪高公を進め因幡國に忍ひ來り、鳥取城を夜討にいたし申候、, は誤りなり、彈正大弼豐定の舍弟に東陽藏主といふあり、宗鑑寺の住職にて、後に, 始め豐國の舍兄源十郎豐數の居城なり、同國岩井城は、武田豐前守にあつけ置る處, 此記の説と少しく異なり、或記に曰く、禪高公の儀、當國さる在所の老農物語仕候, に、武田逆臣を企て、天正の始め源十郎豐數は因州を立退き、但馬におもむき、翌, 天正元年八月一日, 浪人ス, 討ス, 豐國丹後へ, 鳥取城ヲ夜, 豐國ハ布施, 山中幸盛等, ノ説, 屋形ノ子ト, 天正元年八月一日, 一五

頭注

  • 浪人ス
  • 討ス
  • 豐國丹後へ
  • 鳥取城ヲ夜
  • 豐國ハ布施
  • 山中幸盛等
  • ノ説
  • 屋形ノ子ト

  • 天正元年八月一日

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  • 一五

注記 (25)

  • 382,764,72,2125國八東郡に御在城、武田と御合戰これありと申ものもこれあり候、當國布施の城た
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