『大日本史料』 2編 11 長和5年8月~寬仁元年6月 p.247

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閣寺の安民澤の池中に蛇の塔といへるを、御陵ならむといふ説あれと、如何あらむ、また山, と見え、編, 北隅にも小家あれと、此處は平地にて、寺後山といふへき地にあらされは、合さるへし、又金, き極みにそある、さて此御陵の事を、今大北山村在家より北方の田中に埃家とよへる小家, を、此御陵ならむといふ人あり、又同村在家の西側神宮寺といふ草堂の北隣百姓宅地の西, くは知られされと、その北山は葛野郡大北山村の邊の事なることは、昔この大北山に御座, ひ、小寺中なといひて、其寺の名も知られされは、何を便に尋奉るへき因もなきは、いと口惜, 所、返來云、寺後山吉所也、文高相共定申御墓所、舟岡東北方者, 三條院天皇の御骨を藏奉り給へりし御陵なり、今その御在所詳に知かたし、御堂殿記寛仁, 年集成に、五月十二日、葬船岡西邊、奉埋御骨於北山小寺中なと見えたるのみにて、いと委し, ましゝ女院を北山女院と申し、又北山御所なといへりしにて知られたり、さて寺後山とい, 里人云、百年前有一農呼甚兵衞者、開墾之地、號甚兵衛開、今其樹梅圃、相傳以爲御墓所、疑是, 〔山陵考〕三北山陵, 陵地矣、, 元年五月十二日の條に、早朝召文高、院御葬令進勘文、定行雜事、〓, 遣左大辨見可置御骨, 北の誤なるへし、, 今按るに、東北は西, 略, 中, 御所在ノ考, 陵ナリトス, 蛇の塔ヲ御, 北山陵, 御陵トナス, 甚兵衞開ヲ, ル説, 證, 〓, 寛仁元年五月十二日, 二四七

割注

  • 北の誤なるへし、
  • 今按るに、東北は西

頭注

  • 御所在ノ考
  • 陵ナリトス
  • 蛇の塔ヲ御
  • 北山陵
  • 御陵トナス
  • 甚兵衞開ヲ
  • ル説

  • 寛仁元年五月十二日

ノンブル

  • 二四七

注記 (31)

  • 263,610,66,2236閣寺の安民澤の池中に蛇の塔といへるを、御陵ならむといふ説あれと、如何あらむ、また山
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