『大日本史料』 6編 30 応安元年8月~応安2年6月 p.376

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し、菊池武光に就て宮に申請たりしかは、御許容ありし程に、宮の太宰府に御座ありし, 等に、正平廿年八月、河野六郎通堯、將軍をうらむることありて、宮方に參るへきよ, れしこと見えたり、されは其比は、宮は太宰府・博多の間に、御陣をめされしと見えた, に參りて、見參に入しを、やかて刑部大輔になされて、名のりをも通直と改て、めさ, にて、今川了俊と御合戰ありしことを、武朝申状に據なから、兩度御合戰なから懷良親, 聞えたれとも、年紀なけれはいつのことともさためかたし、されとも河野家譜・豫章記, れば、右の状も一定廿年廿一年の比の物なるへし、さてかく宮の其比太宰府に御陣をめ, 給ひしことをいはす、また長慶紀、天授三年四年の間、此宮の肥前の蜷打、肥後の託麻, 王の御事として、良成親王の後征西將軍にて御功勞ありしことは、傳にも紀にも一言も, の御事にて、其年の春の初に筑紫に御下向ありて、初て阿蘇山にも御社參あるへき趣に, いひおよはさりしは、いかなる疎漏のことにてやありけん、いと〳〵心得かたき程のこ, へ御下向なりしなるへし、しかるに日本史良成傳、懷良親王を繼て後征西將軍にならせ, とになんおほゆるをや、さて阿曾文書に、, されしことは、正平十七年、斯波氏經か探題になりて、豐後に下りたりし比より、武光, 爛の文書の、しかも寫しと兒えたるあり、此状に若宮と見えたるは、すなはち良成親王, とあり、年紀も宛所もなき斷, ○文書略ス、先ニ, 掲ゲシモノニ同ジ、, 御下向ノ, 年月, 親王九州, 南朝正平二十四年北朝應安二年二月十五日, 三七六

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  • ○文書略ス、先ニ
  • 掲ゲシモノニ同ジ、

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  • 御下向ノ
  • 年月
  • 親王九州

  • 南朝正平二十四年北朝應安二年二月十五日

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  • 三七六

注記 (23)

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