『大日本史料』 10編 25 天正2年10月~同年是歳 p.278

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とて、名馬御劔を被下たり、親成播面目、先導を致す、, ひ、手を碎き粉骨をせは、落城程有まし、端城は不攻大敗すべしと評議すれは、輝元聞, 〔寛政重修諸家譜〕, 歸せり、時に三村孫兵衞尉親成は、三百餘騎にて馳參り、某し國の案内、城の險易、勢, 滴の微弱なるも消檐下石見へたり、強き松山に押よせ、徒に軍兵を〓して何かせん、弱, いへは、實にも思ふも不思も、皆一同に感動せり、さらは先端城を殘し置て松山に馳向, かば、諸國の武士皆見眞似に致すへし、縱利を失ひ家を損すとも、誅伐すへきに非やと, の多少を能く存て候、先陣の中へ被加候は、如形忠烈を可盡と軍訴を致す條、吉川・小, て、いや〳〵松山は何と〓ても弱く聞へぬぞ、軍林寶鑑にも、碎強以刄、則刄還折挫、雨, 早川各感心議有て、頓て鞆の津へ飛戟を以て及上聞、是そ軍祥の訴訟、重疊の忠義なり, き端城を強き松山と心得押寄は、なしかは勝利を得さらんと云しかは、衆議一同に是に, 隆景をしてこれを討しむ、輝元小田に陣す、, 天正二年、右馬頭となる、このとし備中國松山の城主三村修理進元親そむくにより、, 毛利輝元, ○下略、天正三年正, 月一日ノ條二收ム, 六百十六大江氏, 毛利, 親成毛利氏, ヲ勤ム, 二與シ先陣, 天正二年閏十一月二十日, 二七八

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  • ○下略、天正三年正
  • 月一日ノ條二收ム
  • 六百十六大江氏
  • 毛利

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  • 親成毛利氏
  • ヲ勤ム
  • 二與シ先陣

  • 天正二年閏十一月二十日

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  • 二七八

注記 (23)

  • 646,679,60,1426とて、名馬御劔を被下たり、親成播面目、先導を致す、
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