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有し兵なりといへり、, 佐竹義宣へ御預、義宣家老成敗の時、家老と安太夫と、討果し死る、其子も, にて討死、松浦安太夫は秀吉公御馬廻りニて壹萬石被下候、石田治部少, に相續、早川助右衞門は後浪人して池田輝政へ奉公、藪内匠は細川忠興, 一氏、根來雜賀の押に泉州岸和田の城主に被差置、根來雜賀乃一揆ぬ泉, 安太夫と云、駿河にて喧嘩して切腹、子孫斷絶、眞鍋五郎右衞門は堀秀政、, 輔一味にて、伏見の城一番乘して武名を顯しけるか、關ケ原御一戰の後、, に奉公、後に紀州頼宣卿へ罷出、病死、子なくして跡絶る、一氏家來四人、野, へ罷出、子孫今に有、内匠ぬ忠興にて壹萬石を領す、川毛惣左衞門後に備, 守に御預、後切腹、是は鐘馗乃指物にて、山中城にても先をかけ、方々手柄, 一色頼母は、關原御陣に株瀬川にて討死する、子孫ぬ權現樣え被召出、今, 一中村伯耆守一忠の噺に、幾度軍有ても鑓の事は稀也と聞、亡父式部少輔, 後と云、一氏の子中村伯耆守一忠死去の時、公儀より御咎にて、内藤若狹, 戸田民部に仕へ、後には秀吉公御旗本に御奉公、關原御陣以後、福島正則, 下候、此内寺田又右衞門は、翌年乃秋、大和大納言秀長公ニ付、阿州一の宮, 天正十二年三月二十二日, 川毛備後, 眞鍋貞成, 松浦安太, 夫, 天正十二年三月二十二日, 一三九
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- 川毛備後
- 眞鍋貞成
- 松浦安太
- 夫
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- 天正十二年三月二十二日
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- 一三九
注記 (22)
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