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て大木山に退く、, 攻入て、堂塔伽籃一炬に焦土となす、, を搆へ、人衆を籠メ置き、其餘は本國に歸陣しけり、翌十三年、豐太閤根來を討ち、國, 一統日前宮の廣之に會集して拜見し、各出陣を急きけりとそ、, 中を平けんとす、三月二十一日、羽柴秀長・同秀次を副將軍とし、其兵都合六萬餘、, 追て堺邊まて放火し、直に大坂に進ま, 寺・澤の二城堅く守りて降らす、秀長盟書を與へしかは城を明て各本國に引退く、, んとせし所に、小牧表御和談ありしかは、千石堀・積善寺・濱・佐野・澤の五所に要害, 和泉路より根來に向はしむ、先陣既に千石堀・濱・佐野の城を破る、積善, をしてこれを禦かしむ、紀州勢岸和田を攻て、一戰に勝利を得しかは、中村は城を大, それより諸城を屠ると聞えしかは、, 此事豐臣家に聞えけれは、岸和田城番中村孫平次一氏及黒田官兵衞長政, 同二十四日、大軍根來に, 報書あり、僧には朽葉色の小袖一領を賜はる、即御書を竹杖の内に隱して歸りけれは, 感状を賜ふ、武家高名記に見えたり、, 此合戰に因て、豐臣家より黒田長政に, 台命ありて江戸の官, 府に納むといふ、, 此御朱印御報書根來泉識坊に預, 太閤記には十, 此一段根來寺の, 田其の家にあり、積善守城中に與へし盟書の寫的場某ノ家にあり、本紙は散亡す, 秀長より澤城中に與へし盟書、藥勝寺村波多野次郎左衞門か家に藏む、今轉して太, 萬とあり、, りありしに、根來寺破却の時, これを土佐より得て、渡邊藤左衞門という者と謀て、三十六人の内の姓名を削りて己等の姓名を加へ、國老安藤氏, 條に詳なり、, へ出しけるに、三十六人の者の子孫より、其僞りあることを訴けれは、寛永八年、能阿彌追放せらる、其御書藤左, 衞門の手にありしに、後官府に藏らるといふ、同時に保田花王院寒川等へも御朱印御書を賜はる、これは元祿年中, 泉識坊〓去りて、土佐ノ國にて死す、其御書土佐人の手にありしを、遙に後、本國湊村能阿彌長左衞門といふ者、, 〓某〕, 天正十三年四月二十二日, 八一, 天正十三年四月二十二日
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- 感状を賜ふ、武家高名記に見えたり、
- 此合戰に因て、豐臣家より黒田長政に
- 台命ありて江戸の官
- 府に納むといふ、
- 此御朱印御報書根來泉識坊に預
- 太閤記には十
- 此一段根來寺の
- 田其の家にあり、積善守城中に與へし盟書の寫的場某ノ家にあり、本紙は散亡す
- 秀長より澤城中に與へし盟書、藥勝寺村波多野次郎左衞門か家に藏む、今轉して太
- 萬とあり、
- りありしに、根來寺破却の時
- これを土佐より得て、渡邊藤左衞門という者と謀て、三十六人の内の姓名を削りて己等の姓名を加へ、國老安藤氏
- 條に詳なり、
- へ出しけるに、三十六人の者の子孫より、其僞りあることを訴けれは、寛永八年、能阿彌追放せらる、其御書藤左
- 衞門の手にありしに、後官府に藏らるといふ、同時に保田花王院寒川等へも御朱印御書を賜はる、これは元祿年中
- 泉識坊〓去りて、土佐ノ國にて死す、其御書土佐人の手にありしを、遙に後、本國湊村能阿彌長左衞門といふ者、
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- 天正十三年四月二十二日
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- 八一
- 天正十三年四月二十二日
注記 (34)
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