『大日本史料』 12編 4 慶長十一年四月~同十二年七月 p.671

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けり、平岡壹人智勇を以諫言して有りしかば、卿、小早川の養子として、筑前, とき、彼卿に附屬を命せられ、長臣となる、然るに卿闇將にて不行跡なりし, かば、老臣稻葉八右衞門正成、堀田勘左衞門正利等數人、疎みはてゝ立退き, 近臣なりしが、政所の御連枝故、金吾中納言秀秋卿を取立大名になし給ふ, 兼山村は、伏見の北東にありて、中井戸莊といふ、もとは金山とかきしを、明, 平岡を被召出、美濃の徳野にて一萬石被下、御家人となる、重定老衰して無, を領せられし時、平岡に三萬石を給ふ、秀秋卿、太閤の御勘氣を蒙り、筑前を, の頃は、平岡石見守の領知なりしとぞ、平岡石見守重定は、はじめ秀吉公の, 程病死せしかば、子息定當に家督を給ひ、石見守と稱す、, 暦年中、今の文字に改む, 召上られし時も、平岡心肝を碎き、東照宮に申上て其つみを輕んせらる、石, が亂にも、平岡、秀秋を諫めて、東照宮へ荷擔し奉りければ、秀秋卿滅亡の後, 渡村といひしよし、下江渡七ケ村の本郷なり、御料百九十石二斗一合、慶長, 專養寺は、福光山といひて、日蓮宗京都妙顯, 可兒郡徳野村は、野市場の南東にあり、古名を下江, 〔參考〕, 供美濃志〕〓十可兒郡徳野村は、野市場の南東にあり、古名を下江, ○中, ○中, 略, 略, 二十, (田〓力〕, 徳野村, 專養〓, 慶長十二年二月二十四日, 〔參考〕, 六七一

割注

  • ○中
  • 二十
  • (田〓力〕

頭注

  • 徳野村
  • 專養〓

  • 慶長十二年二月二十四日
  • 〔參考〕

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  • 六七一

注記 (28)

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