『大日本史料』 12編 7 慶長十五年閏二月~同十六年三月 p.1002

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位下に昇り、十年十一月晦日、義昭より内證及ひ鐙一掛をあたへらる、十, かならす勝んと勇みすゝむ、十一月十二日、大友の兵と高城の麓流水の, をえたり、これより豐肥筑前後六國の城壘、風を望みて降る、八年八月十, 二日、織田右府、伊勢因幡守某をして書をもたらし、大友と和解すへきむ, 祐つゐに豐後國に遁れさり、大友義鎭による、六年、義鎭、義祐を佐土原に, のたひの忠節滿悦たりとの書をあたへらる、五年十二月十一日、伊東大, ほとりにて合戰し、士卒等軍功をはけましこれを敗り、敵の首一萬餘級, 日、義昭より諸方調略せるの間、本意を遂るの事近きにあるへし、義久こ, ねを命、また、近衞前久公よりも和議をすゝめらる、九年五月三日、從四, をえたり、「うつ敵は龍田の川の紅葉かな、軍卒これをきゝて、たゝかはゝ, いれんとて、豐肥筑前後六國の兵八萬餘を率ゐて、義久か所領日向國高, 膳大夫義祐と、日向國佐土原にをいてたゝかひをましへ、これを破る、義, きに義昭、織田右府のために京都を沒落し、紀伊國に在留あり、四月十四, 城をせめ圍む、義久數萬の兵をしたかへこれを救ふ、ときに、夢中に發句, 一年、肥前有馬修理大夫晴信、龍造寺山城守隆信と兵をましへ、しは〳〵, 慶長十六年正月二十一日, ト戰ヒ大, 大友義鎭, 伊東義祐, 二之ヲ敗, 後ニ走ラ, ヲ伐チ豐, ス, 一〇〇二

頭注

  • ト戰ヒ大
  • 大友義鎭
  • 伊東義祐
  • 二之ヲ敗
  • 後ニ走ラ
  • ヲ伐チ豐

ノンブル

  • 一〇〇二

注記 (24)

  • 217,719,80,2152位下に昇り、十年十一月晦日、義昭より内證及ひ鐙一掛をあたへらる、十
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