『大日本史料』 12編 14 慶長十九年五月~同年九月 p.920

Loading…

要素

頭注ノンブル

OCR テキスト

門に落入し事、かへす〳〵も無念なりと後悔せしよし、隨右衞門歸朝し, 番を附らる、右の外諸國の伴天連、長崎の伴天連とも百餘人、慶長十九年十, を附らる、飛騨守は下人壹人にて下向、出船迄は高島四郎兵衞長屋に立て, 内藤忠俊は、志摩國鳥羽の城主なり、關ケ原合戰にも高名ありて、天下平均, にて、賀州にをいて三万石を下し置れ、利家卿卒去の時遺言にも、南坊は正, 淺ましき次第なり、, 母上下五人にて下向、出船迄の間は東上町鳥の羽屋敷に置て、數多の番人, の、故ありて西洋國に渡り、南坊に對面し、茶の湯等をいたしたるに、邪宗, 直者なり、今の通りにて召置候樣に、中納言利長卿にも仰置れけるとなり、, 一月上旬に、唐船造の船一艘に乘組せ、浦五島町波戸口より出帆ありしは、, て物語いたせし、七十餘歳迄存命なりしとかや、南蠻西洋國と申は、呂宋, 飛騨守は彼土に到り、久しからすして死去のよし、南坊は長命にて、憂年, の後御取立、一万七千貳百石、從五位下飛騨守と受領す、扨南坊は、子息娘乳, 月を送りしか、杳の後松倉豐後守より申付、万屋町糸屋隨右衞門と申も, アマカハの邊なり、, 慶長十九年九月二十四日, 追放後ノ, 南坊ト徳, 庵, ト爲リ, 南坊ノ人, 慶長十九年九月二十四日, 九二〇

頭注

  • 追放後ノ
  • 南坊ト徳
  • ト爲リ
  • 南坊ノ人

  • 慶長十九年九月二十四日

ノンブル

  • 九二〇

注記 (23)

  • 393,657,69,2149門に落入し事、かへす〳〵も無念なりと後悔せしよし、隨右衞門歸朝し
  • 1096,585,72,2229番を附らる、右の外諸國の伴天連、長崎の伴天連とも百餘人、慶長十九年十
  • 1213,589,71,2218を附らる、飛騨守は下人壹人にて下向、出船迄は高島四郎兵衞長屋に立て
  • 1562,595,72,2219内藤忠俊は、志摩國鳥羽の城主なり、關ケ原合戰にも高名ありて、天下平均
  • 1793,601,74,2214にて、賀州にをいて三万石を下し置れ、利家卿卒去の時遺言にも、南坊は正
  • 875,588,59,573淺ましき次第なり、
  • 1330,590,70,2219母上下五人にて下向、出船迄の間は東上町鳥の羽屋敷に置て、數多の番人
  • 510,664,70,2139の、故ありて西洋國に渡り、南坊に對面し、茶の湯等をいたしたるに、邪宗
  • 1683,593,67,2233直者なり、今の通りにて召置候樣に、中納言利長卿にも仰置れけるとなり、
  • 982,605,69,2220一月上旬に、唐船造の船一艘に乘組せ、浦五島町波戸口より出帆ありしは、
  • 277,659,70,2147て物語いたせし、七十餘歳迄存命なりしとかや、南蠻西洋國と申は、呂宋
  • 743,658,74,2146飛騨守は彼土に到り、久しからすして死去のよし、南坊は長命にて、憂年
  • 1445,599,73,2214の後御取立、一万七千貳百石、從五位下飛騨守と受領す、扨南坊は、子息娘乳
  • 627,663,69,2139月を送りしか、杳の後松倉豐後守より申付、万屋町糸屋隨右衞門と申も
  • 173,668,54,562アマカハの邊なり、
  • 1927,665,47,469慶長十九年九月二十四日
  • 805,219,44,167追放後ノ
  • 760,219,43,170南坊ト徳
  • 717,218,39,40
  • 1807,228,39,118ト爲リ
  • 1850,220,42,174南坊ノ人
  • 1927,665,46,469慶長十九年九月二十四日
  • 1913,2397,44,122九二〇

類似アイテム