『大日本史料』 12編 14 慶長十九年五月~同年九月 p.995

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

アン中村ソースケ、アンドレ横津甚四郎等なり、, しに、基督教徒の多數は、之に應じて山中に遁れしを以て、薩摩の兵士は、此, 十一月二十一日、左兵衞は、有馬の基督教徒二百人を一所に集め、一千人の, 人を率ゐて、有馬に向ひ、先づ島原に行き、基督教を捨てざる婦女子は、之を, 兵士を以て、之を警固せしめ、大に呵責したりしが、七十人は、終に其信仰を, にあらずして、血を流す事を好まず、基督教徒に勸めて、暫く他に去らしめ, 薩摩の兵士は、海岸に沿うて東に向ひ、三會、島原等に行きたり、彼等は戰場, 鎭撫せんと欲し、十一月十六日、駿河殿と共に、薩摩及び肥前の兵士、凡一萬, したり、其重なる者は、ミゲル西七郎衞門、アドリヤン奧村、ジユー衞門、ジヨ, 捨てざりき、二十二日、更に殘酷なる迫害を加へたる後、十七人を斬首に處, に、各自部署して、基督教徒を調査せしめたり、, 苦役に就かしめ、容貌美しき者は、都に遣りて、遊女とならしむべしと宣告, 左兵衞は、大坂に於て、秀頼と、内府樣との間に戰爭始りし故に、速に有馬を, 及び其附近の地方に、平戸の領主は、千々石、及び小濱に、薩摩の領主は、三會、, せり、尋で、軍を三隊に分ち、左兵衞、及び駿河殿は、有馬の都に、肥前殿は、口津、, 島原、有家, ○南高, 來郡、, 來郡、, ○南高, ル教徒鎭, 撫, 馬ニ於ケ, 藤廣ノ有, 慶長十九年九月二十四日, 九九五

割注

  • ○南高
  • 來郡、

頭注

  • ル教徒鎭
  • 馬ニ於ケ
  • 藤廣ノ有

  • 慶長十九年九月二十四日

ノンブル

  • 九九五

注記 (26)

  • 640,593,60,1432アン中村ソースケ、アンドレ横津甚四郎等なり、
  • 289,588,63,2213しに、基督教徒の多數は、之に應じて山中に遁れしを以て、薩摩の兵士は、此
  • 1106,586,59,2208十一月二十一日、左兵衞は、有馬の基督教徒二百人を一所に集め、一千人の
  • 1691,585,59,2215人を率ゐて、有馬に向ひ、先づ島原に行き、基督教を捨てざる婦女子は、之を
  • 991,585,58,2217兵士を以て、之を警固せしめ、大に呵責したりしが、七十人は、終に其信仰を
  • 408,594,60,2202にあらずして、血を流す事を好まず、基督教徒に勸めて、暫く他に去らしめ
  • 523,581,61,2218薩摩の兵士は、海岸に沿うて東に向ひ、三會、島原等に行きたり、彼等は戰場
  • 1806,584,60,2213鎭撫せんと欲し、十一月十六日、駿河殿と共に、薩摩及び肥前の兵士、凡一萬
  • 758,588,61,2201したり、其重なる者は、ミゲル西七郎衞門、アドリヤン奧村、ジユー衞門、ジヨ
  • 874,582,61,2216捨てざりき、二十二日、更に殘酷なる迫害を加へたる後、十七人を斬首に處
  • 1225,1312,58,1357に、各自部署して、基督教徒を調査せしめたり、
  • 1574,585,59,2216苦役に就かしめ、容貌美しき者は、都に遣りて、遊女とならしむべしと宣告
  • 1922,587,59,2211左兵衞は、大坂に於て、秀頼と、内府樣との間に戰爭始りし故に、速に有馬を
  • 1341,585,60,2226及び其附近の地方に、平戸の領主は、千々石、及び小濱に、薩摩の領主は、三會、
  • 1457,591,62,2223せり、尋で、軍を三隊に分ち、左兵衞、及び駿河殿は、有馬の都に、肥前殿は、口津、
  • 1228,802,51,272島原、有家
  • 1256,594,40,184○南高
  • 1210,594,42,123來郡、
  • 1209,1100,41,122來郡、
  • 1253,1104,41,180○南高
  • 1764,224,42,164ル教徒鎭
  • 1720,217,43,43
  • 1810,218,38,166馬ニ於ケ
  • 1852,217,42,174藤廣ノ有
  • 186,661,45,475慶長十九年九月二十四日
  • 190,2388,47,126九九五

類似アイテム