『大日本史料』 12編 15 慶長十九年十月~同年十一月 p.857

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

られ、杉浦左太郎か子四郎左衞門に父か遺領を賜ふ、, をして内藏助か旗の扱ひを賞, 人や多かりはん、中流まて乘出しけるか、次第に沈み、水は深し流は急也、彼, は、兩人一番に神崎川をそ越たりにる、是を見て大隅組の騎士平井庄三郎, の士村山又左衞門、船戸角左衞門兩人に掌らせ、何時も先をせよと申けれ, 源左衞門兩人も追續て渡りつゝ、香西か旗貳本渡せしを取て押立、彼三人, 同彌五郎、杉浦左太郎以下十人計、小船に取のりたるに、船や損したりけん、, 日、興國公の軍勢、俄に神崎川を渡る、中にも梶浦大隅は四十挺の鳥銃を組, 是といふ間もなく、あへなくも神崎川乃底のみく〓と成てたり、興國公大, 藏助も川打越し、東の方に人數を備ふ、此手の旗なみ、他に勝れてみへたれ, 下知して先に進む、外よりは香西か先陣とそ見へたり、これに續て日置内, 備をかりて有たる、湯淺藤右衞門はやく川向に渡り着、岩越惣左衞門、明石, に惜み給ひ、やかて天滿の御陣にて、平井少三郎か弟安兵衞に、兄か家繼せ, は、興國公使番齋藤織部, 續て跡に渡しける香西縫殿助は、日置豐前か跡備なりたるか、縫殿助に, 遣有まし、最早山城參に及はすとの命也、故に引返し、本乃陣に歸ける、同七, 齋藤は黒母衣に金, の切團のたし也、, 説に船乘しつめし, ハ、翌年夏陣の時と云、, 詳, 未, 玄隆ノ兵, 玄隆ノ軍, 渡ル, 河中ニ溺, 神崎川ヲ, 死ス, 慶長十九年十一月七日, 八五七

割注

  • 齋藤は黒母衣に金
  • の切團のたし也、
  • 説に船乘しつめし
  • ハ、翌年夏陣の時と云、

頭注

  • 玄隆ノ兵
  • 玄隆ノ軍
  • 渡ル
  • 河中ニ溺
  • 神崎川ヲ
  • 死ス

  • 慶長十九年十一月七日

ノンブル

  • 八五七

注記 (30)

  • 1002,647,62,1583られ、杉浦左太郎か子四郎左衞門に父か遺領を賜ふ、
  • 300,1945,55,921をして内藏助か旗の扱ひを賞
  • 1348,650,66,2217人や多かりはん、中流まて乘出しけるか、次第に沈み、水は深し流は急也、彼
  • 1580,662,67,2217は、兩人一番に神崎川をそ越たりにる、是を見て大隅組の騎士平井庄三郎
  • 1699,653,65,2213の士村山又左衞門、船戸角左衞門兩人に掌らせ、何時も先をせよと申けれ
  • 650,641,66,2225源左衞門兩人も追續て渡りつゝ、香西か旗貳本渡せしを取て押立、彼三人
  • 1466,644,65,2237同彌五郎、杉浦左太郎以下十人計、小船に取のりたるに、船や損したりけん、
  • 1813,655,68,2212日、興國公の軍勢、俄に神崎川を渡る、中にも梶浦大隅は四十挺の鳥銃を組
  • 1232,645,65,2223是といふ間もなく、あへなくも神崎川乃底のみく〓と成てたり、興國公大
  • 418,645,63,2215藏助も川打越し、東の方に人數を備ふ、此手の旗なみ、他に勝れてみへたれ
  • 534,643,67,2225下知して先に進む、外よりは香西か先陣とそ見へたり、これに續て日置内
  • 764,639,70,2228備をかりて有たる、湯淺藤右衞門はやく川向に渡り着、岩越惣左衞門、明石
  • 1115,654,66,2210に惜み給ひ、やかて天滿の御陣にて、平井少三郎か弟安兵衞に、兄か家繼せ
  • 305,655,58,692は、興國公使番齋藤織部
  • 882,713,68,2154續て跡に渡しける香西縫殿助は、日置豐前か跡備なりたるか、縫殿助に
  • 1932,653,64,2207遣有まし、最早山城參に及はすとの命也、故に引返し、本乃陣に歸ける、同七
  • 329,1372,45,547齋藤は黒母衣に金
  • 287,1371,43,489の切團のたし也、
  • 1028,2279,44,582説に船乘しつめし
  • 983,2261,43,610ハ、翌年夏陣の時と云、
  • 880,650,40,42
  • 925,651,39,39
  • 1527,281,41,173玄隆ノ兵
  • 1868,283,41,170玄隆ノ軍
  • 1781,282,39,74渡ル
  • 1482,280,44,171河中ニ溺
  • 1821,283,42,162神崎川ヲ
  • 1441,282,38,74死ス
  • 201,708,46,430慶長十九年十一月七日
  • 194,2453,46,120八五七

類似アイテム