『大日本史料』 12編 20 元和元年五月 p.219

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と一同御いとまを賜りて、所々をめくりて、日向の國に到て、人の壻になり, 迎寺と云に、秀頼一宿有しと云傳有れは、かた〳〵疑もなく薩摩に落られ, てより、かた〳〵心かけて、右の談は日田の今市川原のみにて、前後しられ, て、子まて出來たれとも、とかく江戸の恐有て、世間狹きやうに覺て、終に日, 向を去、この山中に來り、未人の住さる所に家を造て、曠野を墾、樹木を伐伏, 度々語らせたりと聞し故、日田の人に逢たらんには、必其地今も有や否問, す、いかにと考居たりし間、豐前の下毛郡山國谷仲間村の西派の眞宗寺明, 頼の家人にて、大坂落城より秀頼に從ひ下りて、こゝの今市川原にて、諸士, し也、しかるに又この町の年寄役日隈彦助、公用によりて津江の野田村の, 木地屋白草抔云極山中の里に行てやとりし家の主、其一里の組頭にて、細, 見んと、かねて思ひたるを、此度其素意を遂たりと悦しと聞り、予此話を聞, の押わりをはさみて賜しと云傳説有、又筑後の田主丸の東派の眞宗寺來, 川氏といへは、いかなる細川にやと問しに、其始の細河右馬介と云し人、秀, るに、今市川原の御いとまの段にいたれは、いつも大聲にて泣くおかしさ, 圓寺と云に、秀頼たちよられて、晝餉をめされて、住持をめして、辨當のゑひ, 元和元年五月八日, 二一九

  • 元和元年五月八日

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  • 二一九

注記 (17)

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